2017年05月 アーカイブ


男50歳からの古代史構想学(7)古代史にリアリティを

こんにちは、古代史勉強家の大和健です。
7回目の今回はいよいよ纒向遺跡の中心を見て回った様子を書こうと思います。

実は纒向遺跡は九州の吉野ヶ里遺跡のような史跡公園になっているわけでもなく、358本もの銅剣が出土した出雲の荒神谷遺跡のように発掘時の状況が再現されているわけでもありません。
発掘された場所は全て埋め戻されていて遺跡を遺跡として認識することはできません。案内板が立っているだけなのです。
だから実地踏査と言ってもやることは、その場に立って何かを感じること、それをもとに考えること、くらいなんです。

でも、この「感じること」と「考えること」というのがものすごく意味があると思うのです。
本を読んだり講演を聴いたりして得た知識をもとに机上で考えることはもちろん重要かつ必要不可欠なのですが、実地踏査はそこにリアリティを加えることができるのです。
これによって自分の仮説の確からしさ、あるいは説得力が高まるのだと思います。


埋蔵文化財センターを出た私たちは来た道を戻り、日本最古の道といわれる「山辺の道」に入り、その後は「茅原大墓古墳→ホケノ山古墳→箸墓古墳→纒向石塚古墳→辻地区(大型建物跡発掘地)→纒向勝山古墳→纒向矢塚古墳」という順に回りました。いくつかを紹介します。
 
 
①茅原大墓古墳(ちはらおおはかこふん)
古墳時代中期(5世紀前半代)の帆立貝式前方後円墳で全長は85メートル。
「帆立貝式」とは前方後円墳の前方部の長さが短く、ホタテ貝のような形をしていることからこのように呼びます。
前方後円墳の原型と言われ、3世紀にこの纒向で発生したと考えられていることから「纒向型前方後円墳」とも呼ばれます。
しかし、この古墳に登ってまず「これは円墳だ」と思いました。というのも上から見ても前方部が確認できなかったのです。
おそらく後世に盛土が削られたのでしょう、畑として利用されていたからわからなくなっていました。
それでも帆立貝式前方後円墳というからには、発掘の結果としてそれが確認されたのだと思います。
このように古墳は後世に盛土が削られることがよくあるのです。
 
 
②ホケノ山古墳
3世紀中頃に造られた纒向型前方後円墳で全長が90メートルで後円部の直径が60メートル。
1999年からの発掘で重厚で独特な埋葬施設が見つかり、一躍脚光を浴びました。
築造時期が卑弥呼が亡くなった時期に合っていること、この埋葬施設が女王の亡骸を納めるのに相応しい「しつらえ」であること、直径が60メートルということは60センチくらいの小さな歩幅であれば100歩となり、魏志倭人伝にある「径百余歩」という記述と合っていることなどから、この古墳が卑弥呼の墓ではないかと考えています。
山すその少し標高の高いところにあって、墳丘に登ると纒向一帯を見渡すことができる、というのも理由のひとつです。
これは実際に登ってみてわかったことです。
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    (桜井市のホームページより)
 
 
③辻地区(大型建物跡発掘地)
卑弥呼の神殿ではないかと騒がれた3世紀前半のものと推定される大型建物跡が発掘されたところです。
建物跡は4棟分が発掘され、最大のものは床面積が238平米でかなりの広さになります。
この最も大きい建物がいちばん東にあり、そこから西にむかって一直線に3つの建物が並んでいることから、この4棟は計画的に建設されたと考えられます。
この建物群の主は、東の山々から昇る太陽を拝み、おもむろに振り向いて西の建物に控えた者にお告げを伝える、そんな状況が浮かんでくるのです。
とはいえ、この現場は全て埋め戻され、いわゆる「原っぱ」状態になっていたので、これはもう想像の世界に入りこむしかないのです。

 
こんな感じで纒向ツアーを終えた私たちは近鉄電車で難波へ出て、がんこ寿しで互いの労をねぎらいました。


私はもともと纒向に邪馬台国があったと考えているので、纒向を訪ねる目的はそれを補強するための材料探しということになるのですが、一方で、邪馬台国が別のところにあったと考える人にとっては全然違った見方になるのだろうと思います。
たとえば、吉野ヶ里遺跡が邪馬台国だと考える人はこの纒向遺跡をどのように捉えるのだろうか、というのを聞いてみたい気持ちがあります。
ただ、他の人の考えを否定したり反論するつもりは全くなく、むしろ部分的に使えるところはないかな、とすら考えています。

これからも自説を紹介していくと思うのですが、「おとなの学び」ではそれをわかってもらいたいという思いよりも、私がいかに古代史を楽しんでいるか、というのお伝えしたいと思っています。

次回からは、一年前の6月に一人で巡った奈良県の葛城地方について書いてみたいと思います。
 
 

大和 健(やまとたける)
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ブログ:古代日本国成立の物語
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清田(きよた)日記 ~男50歳からの資格取得 第7回資格取得への道 その4~

2014年11月。
2回目の行政書士試験に臨みます。


今回は、憲法も含め、その他試験対象の法律条文や判例も読み込みました。
前回は全ての範囲を履修できていなかった、民法や商法、会社法もテキストの読み込みとともに過去問題もカバーしました。
そして3割弱しか得点できなかった記述問題も過去問題の模範解答を実際にノートに書くとともに、しっかりと読み込んでおりました。
試験会場である日本大学に向う時から、前回とは気合が違います。


「きっと出来る。」「間違いない。」


などと、心の中で叫びながら、前回の経験を活かして自分が試験を受ける教室を軽く見つけ出して、受験番号が貼付されている机に到着しました。
最後に、テキストの中で特に留意すべきポイントを再確認し、机の上に筆記具と消しゴムだけを残して、気持ちを落ち着かせました。
試験前にこれ以上の状態を望むべくもありません。
まさに準備万端であります。


試験が開始されました。
試験途中で、「あれっ???」と声が出そうになりました。


その理由は、民法など見たこともない問題が多く、試験途中で固まってしまいそうになりました。
そうなのです。自信を持って解答できないのです。
情けない話、自分としてはそれなりに努力したつもりの記述問題も民法のあまりの不出来に、あせってしまって完全な勘違いをしてしまいました。
(今から思えば、単なる言い訳にすぎませんが。)
全体に手ごたえが全くない状態で、試験は終了。


茫然自失。放心状態で電車に揺られて帰宅しました。


さすがに当日の夜は、資格取得の専門学校から発表された正解予想との答えあわせをする気力も湧いてこず、早々にベッドに入ったことを思い出します。


翌日、会社から帰って、答えあわせをしてみました。
なんと寂しいことですが、充分な準備が出来ていなかった初回受験の時よりも獲得得点は低い結果になると思いました。
民法の結果など最悪でしたし、負の連鎖といえるのか、会社法でも勘違いが多々ありました。


「絶対に不合格。自分はバカだ。情けない。自分が合格するのは無理かもしれない。」などと、心底落ち込みました。


1週間ほど経ったでしょうか。
自分に対して、だんだん腹が立ってきました。
「不合格のままでいいのか。諦めたら負けが確定するぞ。」


「そうだ諦めなければ、負けではない。」


などと、自分の中で勉強を続けるかどうかで葛藤しました。


仕事は、上手くいかないことがあっても、当然ながら最後までやり遂げることが義務ですが、資格取得勉強は、あくまで自発的な行為であり、こうした状況の時にどういった判断をするかは個人の意思に任されています。
どう決断しようが、誰にも迷惑はかかりませんし、頑張るべきだという決まりもありません。
ただこの時の私は、「自分自身に猛烈に腹を立てていた。」というのが正直なところでした。


結果、あと1年真剣に勉強して、それでも駄目なら資格取得を諦めようと結論付けました。


この結論を出したのは、2014年の12月頃だったと思います。


最後と決めた以上、勉強内容も大きく見直しました
独学で勉強するスタイルに変更はありませんが、やるべき事柄を自分なりに検討し、徹底して履行することにしました。

「自分自身に猛烈に腹を立てた。」と記しましたが、今から思えば、
資格取得の勉強を通して、自分という人間を自分自身で初めて客観的に分析したように思います。
そして、自分の意思に忠実であることが大切なことも、本当の意味でわかる経験でした。


その内容は、次回以降で。


(つづく)


清田 一人(きよた かずと)
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清田(きよた)日記 ~男50歳からの資格取得 第6回資格取得への道 その3~

2013年11月の行政書士試験が終わりました。


3時間ノンストップ試験も3度目となり、免疫が少し出来たのか、なんとか頭真っ白にはならずに試験を終えました。
とはいえ、やはり手ごたえはありませんでした。
ちなみに試験の合格発表は、翌年(2014年)の1月末で、受験生は相当の期間、結果を待つことになります。


他の資格試験も同じかも知れませんが、試験当日の夜から資格取得の専門学校からネットで正解予想が発表されます。
試験問題は持ち帰れますので、当然ながら私も答えあわせをしてみました。
法令および一般常識の選択問題は、手ごたえがなかったわりに意外と出来ていて、6割程度の正解率でした。
合格する方々は、選択問題では7割以上の正解率を示すことが多いそうですので、決して素晴らしい結果ではないのですが、自分としては少し満足感を持ったことを覚えています。


とはいえ、記述問題の正解予想を確認したところ、自分が書いた内容と模範解答予想のあまりの違いに愕然(がくぜん)となったことも思い出します。
記述の配点は、1問20点の計3問60点ですので、合否の大きな鍵となるのですが、どう甘く見積もっても3割程度の得点しか得られていないだろうことは、容易に判断できる状態でした。


翌年の結果を待つまでもなく、次年度の受験に向けて頑張るしかないと気持ちを切り替えました。
この時の自分の気持ちとしては、法令科目に関して、条文や判例の読み込みも不充分だったのに、それなりの結果だったのだから、次年度に向けてやるべきことをやれば、きっと合格すると思っていました。


その後、初めて六法や判例集を購入し、次年度に向けた補修をスタートしました。
自分の弱点である憲法を含めた条文の読み込みと有名判例に限らず、多くの判例に触れる必要がありました。


2回目の行政書士試験に向けて、そうした勉強を続けていた2014年1月末、1回目の行政書士試験の結果が郵送されて来ました。前々回の日記で合格基準は書きましたが、法令および一般常識で足切りにはならなかったものの、合計180点以上の得点が必要なところ166点との結果に終わりました。


ほぼ自己採点通りの結果で、やはり記述は3割程度の得点しか獲得できていませんでした。もっと正確にいうと、記述は3割にも満たなかったのです。(非常に寂しい。)


とはいえ、この時点での私の課題点が明確に見えてきました。(あくまで前向きです。)条文、判例の読み込み。法令科目として民法、会社法。そして、記述問題が課題でした。この時の私は、そうした弱みを強みに変えるべく、1年間頑張ろうと燃えていました。


今から思えば、問題の問い方が変わると難易度が大幅に変わることなど、頭の片隅にも無かったような気がします。
皆さんも経験あるかと思いますが、本当に理解したことは、少々問題の問い方が変わっても充分対応できます。
他の人に教える場合でも、本当によく理解した人が教えてくれる場合と、そうでない人が教える場合では、教えられた人の理解度が大きく違ってくる状況に似ています。
この頃、本当に理解することが非常に大切なことであることを、どこかに忘れた状態だったように思い出されます。
まさに「しのごの言わず、覚えればいいんだ!」との心境でした。


「単に覚えるだけでは、本当の理解といえない。」
そうした道理を今なら冷静に判断できるのですが、この時の私は、弱点となっている課題を「単なる知識」ととらえ、1年かけてしっかり覚えれば、2回目の受験は必ず合格できるとシンプルに思っていました。
そして、その自分が決めたレールに乗って、ある意味自信満々に走り続けたのです。

次回。2回目の受験に突入です。
どうなる清田。
(つづく)

男50歳からの古代史構想学(6) 三輪の名物と言えば

第六回目。大和健です。


纒向遺跡ツアーの続き、今回は三輪山登拝後の至福のひとときを紹介します。


三輪山登拝を終え、狭井神社のご神水でひと息ついて時計を見るとすでに12時を回っていました。
炎天下での2時間の山登りで疲労困ぱいの上に体温の上昇も甚だしく、ランチ休憩をとることにしました。
入ったお店が大神神社の二の鳥居近くの福神堂という御食事処。
お昼どきでそこそこお客さんがいたように記憶しているが、たまたま空いていた奥の小上がり席に陣取ってメニューを開け、まずは当然のように生ビール。
そして食事は何と「そうめん」。


関西人にとってそうめんというのはお中元でいただくもので、自分でお金を払って食べるものではないのです。
それでもこの時ばかりはメニューにあった冷たいそうめんの写真が何と美味しそうに見えたことか。
エアコンとビールとそうめんでようやく体温が下がって正気が戻るかと思いきや、疲れた身体に程よくアルコールが回って何ともいえない心地よさ。


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さて、ここから脱線。
その昔、山頂の大物主神に拝礼するために毎朝太陽が昇るとともに三輪の山に入る神職がいた。
春夏秋冬、暑いときも寒いときも往復2時間の道のりを黙々と歩いた。
そして登拝を終えるとようやく朝餉(あさげ)だ。
登拝を終えた神職の身体は、暑いときには身体を冷ます食べ物を、寒いときには身体を温める食べ物を欲した。
長期間の保存ができて、良質のたんぱく質が摂取できて、冷たい食べ方でも温かい食べ方でも簡単に調理ができるもの、「そうめん」は古代の神職の知恵が生んだ食べ物ではないだろうか。
三輪の地はそうめん発祥の地である。


そう思って「三輪素麺」で検索。Wikipediaによると
「6世紀から7世紀に仏教伝来と共に小麦栽培・製粉技術が伝えられたとされている。
伝説によると大和三輪において紀元前91年(崇神天皇7年)、大物主命の五世の孫である大田田根子命が大神神社の大神主に任ぜられ、その十二世の孫である従五位上大神朝臣狭井久佐に次男穀主が初めて作ったという。」
とある。
当たらずとも遠からず。これも実地踏査のなせる業(わざ)か。


いつまでも休んでいるわけにも行かず、重い腰を上げて向かった先が桜井市立埋蔵文化財センター。
ここには纒向遺跡から発掘された貴重な遺物が展示されています。
展示物の数はそれほど多いわけではないのですが、とにかく貴重なものばかり、レプリカではなく本物が並んでいるのです。
少なからず興奮状態に。
しかし、このときはまだそれほど詳しく纒向遺跡を勉強していたわけではないので、ひとつひとつの遺物の意味がよくわかっていなかったのですが、その後に勉強を重ねていくと「もっとしっかり見ておけばよかった」という後悔の念がフツフツと沸いてきました。


それでもここでひと通りの情報をインプットして、いよいよ私たち3人は纒向の中心に向かってペダルを漕ぎだしました。


最後に、これから何度も登場してもらうことになるので、私とともに纒向を訪ねたメンバー(=宮崎ツアー企画メンバー)の正体を明かしておきます。
ひとりはこの「おとなの学び★ニュース」の編集長でもあり、セカンドアカデミー(株)代表の佐々木偉彰さん。
もうひとりは「清田(きよた)日記~男50歳からの資格取得」というタイトルで私とともに「おとなの学び★ニュース」で発信されている清田一人さんです。
3人とも50代後半、100年ライフを目指してそれぞれの生涯学習に取り組んでいる真っ最中です。


ではまた次回。


大和 健(やまとたける)
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男50歳からの古代史構想学(5)苦行、三輪山登拝

ついに第五回目までこぎつけました。古代史勉強家の大和健です。
今回はまず纒向ツアーのメインイベントであった三輪山の登拝を紹介したいと思います。

三輪山は奈良盆地の南東部、奈良県桜井市にある標高467mの山で、三諸山(みもろやま)とも呼ばれ、御諸山とも記されます。
古代より自然崇拝の対象とされ、山そのものがご神体であるため、神職以外は入山できなかったのですが、明治以降は入山心得を守れば誰でも登れるようになったそうです。
ご神体に登ることから、登山ではなく登拝と言われています。

なお、登拝時の写真撮影は厳禁。そして後日には、登拝時に見たことを口外してはならない、ということを耳にした(目にした?)のですが、あらためて大神神社のサイトで確認してもそんなことは書いていないので、当たり障りのない範囲でお伝えします。
これから三輪山へ行ってみようと考えられている方の参考になればと思います。


三輪山への登拝は大神神社の摂社である狭井神社での受付から始まります。
300円の登拝料を支払うと三輪山参拝証と記されたタスキが渡されます。
これは記念になるので持ち帰りたくなるのですが、登拝後に返却しなければなりません。
安全に下山したことを確認するためとのこと。
そうなんです。三輪山登拝は危険を伴う登山ということです。
なのに、何の下調べもしていなかった私はこの後、思い知らされることになるのです。

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6月の初夏というにはあまりに厳しい日差しの中、帽子もタオルも持たず、さらにはあろうことか、給水の備えもせずに登拝に挑んでしまったのです。
当然のことながら途中に自販機などなく、休憩個所もほとんどありません。
いったん入山してしまうと頂上を目指してただひたすら歩を進めるのみ。


苦行でした。


帽子、タオル、水を持たなかったことを全身全霊で後悔しました。
やっとの事で頂上にたどり着いたものの、日陰がなく、座るベンチもなく、山頂の高宮神社で手を合わせ、磐座を確認して早々に下山しました。
下山後は狭井神社境内に湧き出るご神水でようやくノドの、いや全身の渇きを潤すことができました。


<<佐々木編集長の割り込み>> ※編集長も古代史ファンなのです
「磐座」と書いて、「いわくら」と読むのですね。
言葉どおり、大きな岩のことで、「岩倉」と書く場合もあります。
日本全国の多くの神社で、「磐座」がご神体となっています。
古代日本の信仰は、「磐座」信仰であったと言えるかもしれません。
たとえば、阿智神社の磐座(Takacchiさん提供)
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(割込、以上)


往復で約2時間。
季節や天候にもよると思いますが、もしこれから行ってみようという方がおられたら、それなりの備えをお勧めします。
狭井神社では杖を貸してもらえるのでそれもあった方がいいでしょう。
ご神体に失礼になるからということか、靴を脱いで裸足で登拝する人を見かけましたが、危険だなと思いました。


時計はすでに12時を回っていました。
実はこのような苦行のあとに私たちを待っていたのは至福のひと時だったのです。
続きは次回。


<おまけ>
三輪山の説話は日本書紀や古事記の崇神天皇紀に出てくるのですが、ここで日本書紀のほうを紹介します。
有名な話なのでご存知の方も多いかと思います。


卑弥呼ではないかとも言われている倭迹々日百襲姫命(やまとととひももそひめ)という女性がいました。
彼女は大物主神と結婚しました。しかし夫は夜にしか現われず、その容姿を知ることができませんでした。
あるとき夫に「その姿を見たいので朝までいて欲しい」と懇願し、夫は「その気持ちはよくわかるので明朝にあなたの櫛笥(櫛を入れる箱)に入っていよう、ただし、私の本性に驚くなよ」と伝えました。
彼女は夜が明けてからその櫛笥を見てみました。すると、とても麗しい小蛇がいました。
それで驚いて叫んだところ、夫は恥ずかしく思ってすぐに人の形になりました。
「お前、我慢が出来ずにわたしに恥をかかせたな。 わたしも山に還って、お前に恥をかかせよう」
それで大空を飛んで御諸山(三輪山)に登りました。
彼女はそれを仰ぎ見て後悔して、ドスンと座りました。
そのとき、箸で陰(ほと)をついて亡くなりました。
それで大市に葬りました。世の人はその墓を箸墓と名付けました。


箸墓が卑弥呼の墓であるといわれるひとつの根拠になっている説話です。
その箸墓は陵墓参考地「大市墓」として宮内庁が管理しているために柵がめぐっていて、周囲から眺めることしかできません。
しかしそれにしても、箸墓の名の由来を伝えるのなら、もう少し上品な話にできなかったのでしょうかね。


大和 健(やまとたける)
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男50歳からの古代史構想学(4) 纒向でのヒラメキ

こんにちは、大和健です。今回で第4回目です。
「古代史構想学」というタイトルに見合った内容になっているのか少し不安がありますが、思うままに書いていきますのでこれからもお付き合いください。
今回は宮崎ツアーに先駆けて訪れた奈良の纒向遺跡について書きたいと思います。


纒向遺跡は奈良県桜井市の三輪山の北西麓一帯にある弥生時代末期から古墳時代前期(3~4世紀)にかけて栄えたと考えられている集落遺跡です。
3世紀といえば卑弥呼の時代にあたります。卑弥呼や邪馬台国が登場する中国の史書である「魏志倭人伝」には、西暦239年に魏の皇帝が卑弥呼に対して「親魏倭王」の称号とともに金印を授与したことが記されています。まさにその時代に繁栄していたのがこの纏向遺跡なのです。


神殿ではないかと言われている大型建物跡、祭祀に用いたと思われる2千個もの桃の種、同じく祭祀用と思われる導水施設、日本各地から搬入された土器、護岸工事が施された水路などが発掘される一方で、人が住んだ住居跡がほとんど出ていないため、政治や祭祀を執り行うことを目的に建設された政治都市であると言われています。
また、初期の前方後円墳である箸墓(はしはか)や、その前方後円墳の原型と言われているホタテ貝型古墳がいくつも存在することから、大きな政治勢力がこの地にあったことは間違いないのです。
これらの状況に加えて魏志倭人伝や記紀の記述を読み解いた結果として、私はここが邪馬台国であったと考えるのが最も蓋然性が高いと思うに至りました。


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(左側が北です)


さて、話はちょうど4年前の2013年6月16日にさかのぼります。
朝9時、宮崎ツアーの企画メンバー3人は近鉄大阪線の桜井駅で落ち合い、レンタサイクルを借りて「桜井駅→三輪山登拝→桜井市立埋蔵文化物センター→茅原大墓古墳→ホケノ山古墳→箸墓古墳→纒向石塚古墳→辻地区(大型建物跡発掘地)→纒向勝山古墳→纒向矢塚古墳→桜井駅」という行程で巡りました。
この実地踏査においても私なりに得ることがたくさんあったのですが、何よりも桜井駅に降り立ったときに閃いたことが最大の収穫でした。


日本書紀によると、初代天皇である神武天皇から第9代の開化天皇までの神武王朝における皇居および陵墓のほとんどが、この桜井駅よりも南の磐余(いわれ)や葛城の地にある一方で、第10代の崇神天皇から3人の天皇の宮は北側の纒向近辺に営まれ、崇神天皇と第12代景行天皇はその陵墓も同じく纒向にあるのです。
私は約半年ほどの思考の結果、第9代までの神武王朝と第10代以降の崇神王朝はつながっていない別々の王朝であると考えるようになっていました。そして閃いたのです。つい今しがた乗ってきた近鉄大阪線はこの二つの王朝を分断する国境線ではないか!


神武天皇は九州において倭国との戦いに勝利したあと、大和を目指して東征し、そして奈良盆地の南部の葛城・磐余に進出して勢力基盤を築いた。
一方で崇神天皇は纒向を拠点に大きな勢力をもち、魏志倭人伝に記される邪馬台国として連合国家である倭国を統治していた。
狗奴国王の神武は倭国の本丸である邪馬台国に乗り込んできたのだ。そして近鉄大阪線を挟んで両国が対峙することとなった。


私の頭の中でこの図式ができあがった瞬間でした。


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次回はこの纒向実地踏査でのエピソードを紹介しましょう。


大和 健(やまとたける)
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清田(きよた)日記 ~男50歳からの資格取得 第5回資格取得への道 その2~

テキストのあと2回の精読が終わりました。
「精読」と記しているのですが、この時の状況は理解できているといった状態からは、ほど遠いものでした。
暗記が得意だなどと言っておきながら、実に恥ずかしい状態で、自分には丸暗記できるような能力は無いと、つくづく実感しました。
一つ一つの理屈や背景が分かっていないと拒否反応が生じてしまって、理解できないのです。


数ある法令科目の中でも、特に民法に苦しんでいたことを思い出します。
この時、資格取得の専門学校に通うことも考えたのですが、日々の業務もあり、それは難しい状況でした。そしてやはり、性格的にも無理だと思っていました。


ここは行政書士試験の過去問題を掲載しているネットを利用して、徹底的に問題を解いてみようと決めました。前回の日記でも触れましたが、そのネットの過去問題には、解答だけではなく、ありがたいことに上質な解説まで載っています。
この状況打破に、その解説に教えを乞うことにしようというわけです。
確かその年(2013年)の4月頃から、特に土・日を利用して、「掲載された全ての過去問題を最低でも2回は解くぞ!」と苦しみながら問題を解いたことを、懐かしく思い出します。
この過去問題の鍛錬(たんれん)は、この解説を読むために行ったといっても過言ではない状況でしたが、本当に役に立つものでした。
とはいえ、当時は解説を読んでも理解できない箇所が多々あったことを思い出します。


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※過去問題だけでなく、上質な解説まである『行政書士試験! 合格道場


11月にある行政書士の本試験の受験申込は、8月初旬から9月初旬にかけて行うのですが、受験科目の履修も終了しておらず自信は全く無いものの、当然のように申し込みました。
また、資格取得学校の行政書士公開模擬テストなるものが、9月と10月の計2回実施されていましたので、他流試合経験と、本番の雰囲気を味わうためにチャレンジすることにしました。


他流試合1回戦。9月の公開模試のことは、今でもよく覚えています。
公開模試も、本番の試験同様、午後1時から午後4時の3時間試験で行われるのですが、3時間ノンストップで集中する経験など、この頃の私には全く未知の世界で、問題が解けないのは当然としても、試験が終了した時の疲労感は、凄まじいものがありました。
まさに頭は真っ白で、酸欠状態になってしまいました。


公開模試の結果は、当然といえば当然ですが、全く箸にも棒にもかからないものでした。
特に法令では民法。問題形式では判例問題や記述問題は、惨憺(さんたん)たるものでした。


判例問題は、憲法・行政法(行政手続法・行政不服審査法・行政事件訴訟法)・民法等の、主要な判例を幅広く読み込むことが必要です。記述は3問出るのですが、1問20点と高配点で、的確な法律用語を駆使して論旨を明確に書かないと高得点にむすびつきません。
合格基準を満たすためには、もっともっと勉強しないと無理だなと痛感した公開模試1回戦でした。


季節の移り変わりは早いもので、10月になりました。
10月は、他流試合2回戦があるとともに、本番の行政書士試験も翌月に迫ってきていました。
この頃の私の精神状態は、不思議と落ち着いていました。
そうなのです。
公開模試の結果もあり、11月の試験まで出来る限りの勉強をして、仮に落ちても来年を目指しての経験と割り切っていました。
悲壮さは無いものの、この当時は、書店で問題集も購入し、仕事から帰って平日の夜も机に向かっていたことを覚えています。
そうした姿を見た女房から、「はじめて見る姿」と声をかけられたことに、もしかしたら気分を良くしていただけかもしれませんが、心は不思議と平穏なものでした。
しかしながら、他流試合2回戦の結果も、1回戦よりは良くなったものの合格には程遠いものでした。
問題を解いても、自信を持って解答することもできず、なんとも頼りない状態でした。
今から思えば、勉強の絶対量が不足していました。


2013年11月国家資格行政書士試験当日。
「一定のレベルを超えないと緊張もしないものだな。」と思いながら試験会場に向かいました。
オリンピックなどで、選手が「緊張しました。」とのコメントを発していますが、それは、手ごたえを感じる、ある一定のレベルに達した人が言える言葉なのだと、つくづく思いました。
とはいえ私の辞書に、参加しないといった選択肢は、過去にも現在にもありません。
「何が起こるかわからない。最後まであがこう!」と試験会場である飯田橋の日本大学法学部キャンパスに向かいました。


結果は、次回日記で。
(つづく)


清田 一人(きよた かずと)
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清田(きよた)日記 ~男50歳からの資格取得 第4回資格取得への道 その1~


「行政書士資格を取得する。」


55歳(2013年2月)の私の方向性は定まった。


まずは、行政書士試験の概要を調べてみた。
・試験日は、原則毎年11月の第二日曜日の午後1時~4時の3時間。
・試験科目と内容は、行政書士の業務に必要な法令等から46題と一般知識から14題の計60題。
 法令等とは、憲法、行政手続法、行政不服審査法、行政事件訴訟法、国家賠償法、地方自治法、民法、商法、会社法および基礎法学のことであり、一般知識とは、政治、経済、社会、情報通信、個人情報保護、文章理解のことであった。
・配点内容は、法令等で244点。一般知識で56点の合計300点であった。


初めて試験概要を見た時に驚いたのは、合格基準だった。
1. 行政書士の業務に関し必要な法令等科目の得点が、122点以上である者。
2. 行政書士の業務に関連する一般知識等科目の得点が、24点以上である者。
3. 試験全体の得点が、180点以上である者。
上記の1~3の要件を全て満たすことが必要であった。


そうなのです。科目毎に足切り点が設けられていたのです。
これには少々ビビリましたが、決めたことはやるしかありません。


私にはありがたいことに日々の仕事があり、自由な時間は毎日の通勤時間と土・日だけです。
(帰宅後の勉強までは、当時の私の頭には全く思い浮かびませんでした。)
独学で勉強をし、11月までには約9ヶ月もあるのだから、その年(2013年)の受験を目指そうと決めました。
正直なところ、私は先生に教えてもらうことが苦手で、そういった意味でも独学は望むところでした。この選択が後々大変なことになることも知らずにです。


早速、某有名資格取得専門学校の行政書士合格テキストを購入。
まずは1回読んでみようと本を開きました。
すぐに気がつきました。
「この行為は、かなり無謀な行為だ」 と。
自分は暗記が得意だから何とかなるさとの密かな自信は木っ端微塵(こっぱみじん)です。


そうなのです。第3回日記にも書きましたが、私は法学部の出身ではありません。
難しい法律用語は、全く理解不能です。
特に読むのに苦労したのは、法律条文と判例でした。
読書は好きでも、条文や判例等のお堅い文章は、全く異次元の文章であり、そうした表現にまず慣れることが必要でした。
どうしてもテキストの内容が腹落ちしないこの時期、何度も「もうやめようか。」と思いました。
でも元来能天気な私は、資格取得した後の満足感に浸っている自分の姿を想像し、それを励みに、せめて1回は最後まで読み終えようともがいていました。


なんとかヨレヨレになりながらも1回は、テキストを読み終えました。
とはいえ、テキスト内容が理解できている状態からはほど遠く、掲載されていた練習問題にも全く歯がたちません。
完全に自信喪失状態でした。


そんな時、ネットで行政書士合格者の合格体験記なるものを読みました。
なんと、みなさん年間1,000時間程度の勉強をなさっておられました。
まさに頭の下がる体験記ばかりで、私もやらねばとの気持ちになりました。
またそのホームページでは、20年以上の過去の行政書士試験問題が閲覧できて、上質な解説まで掲載されていました。
ちなみに練習問題や動画講義を見るためには有料会員になる必要があるのですが、過去の試験問題は無料閲覧できる太っ腹なホームページでした。
とは言え、すぐに過去問題を解ける実力も全くありません。
私は、あと2回はテキストを精読し、その後このホームページを活用させて戴くことを決めました。


「パターン認識は得意だ。徹底して過去問題を解けば、きっといける!」


どこまでも能天気な私でした。

この頃のわたしは、
この道が長く曲がりくねっていることなど、知る由(よし)もありませんでした。
(つづく)


清田 一人(きよた かずと)
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男50歳からの古代史構想学(3)古代史熱に火をつけた宮崎旅行

今回で3回目となります。素人古代史勉強家(研究家と名乗るのはおこがましい)の大和健です。
今回は古代史にはまる直接のきっかけとなった仲間との宮崎旅行を紹介したいと思います。


このツアーのテーマは前回でも書いた通り「神話の里を訪ねる旅」でした。
1泊2日のツアーは「熊本空港→阿蘇大観峰→天岩戸神社→高千穂峡→高千穂神社→ホテル高千穂(泊)→クルスの海→大御神社→西都原古墳→宮崎空港」という行程だったと記憶しています。


しかしながらこのツアーは、自分の脚で現地へ赴き、自分の五感で感じ、自分の頭で考える、いわゆる実地踏査の重要性を認識した貴重な体験となりました。
結果的にこのツアーで感じて考えた多くのことが自分の仮説を補強することになりました。例をあげてみます。


熊本から阿蘇を抜けて高千穂へ入るルートを辿ったことで、高千穂の地が阿蘇山と眼と鼻の先であることが確認できました。その後の勉強で、阿蘇の北側に弥生時代に大規模な戦闘があったことを想定させる数多くの遺跡が存在することを知り、魏志倭人伝に記される女王卑弥呼が統治する倭国と南九州の狗奴国による戦闘の痕跡ではないかとの考えを持つに至って、高千穂は狗奴国が大本営を置いた場所である、と考えるようになりました。
また、地図で見ると山間の狭い土地だと思っていた高千穂は意外にも水田の広がる豊かな土地でした。南九州から北進してきた狗奴国が拠点を設けるには十分な場所です。


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パワースポットでも有名な高千穂では、天岩戸神社の奥にある天安河原を流れる小川からパワーを受けて、ここに神々が集まったという話を創作した古代人の感性に感心しました。一方で、高千穂は神話のテーマパークだと言った同行メンバーの言にも頷かされたり。
神話が先か、出来事が先か。これは古代史を解き明かすときの重要なポイントなのです。


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高千穂神社では、神武天皇が馬に乗って東征に出発しようとする姿が眼に浮かび、狗奴国の王が神武天皇であり、狗奴国は倭国に勝利した結果として次に東を目指したのだ、と考えるようになりました。そして後日に地図を見て、高千穂から日向灘に流れる川の名(五ヶ瀬川)が神武の兄の名前(五瀬命)と同じであることに気がつきました。


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ホテル高千穂で夕食をとった後に高千穂神社に戻って観た夜神楽は、この地で代々に渡って脈々と神様の話が受け継がれてきたことを強く感じました。今では、これは創り話としての神話を体現するためのものではなく、この地で起こった何らかの史実が神話に取り込まれたことを自慢する、あるいは祝うためのものではないかとすら考えるようになりました。
それにしても、そこそこ広い会場が老若男女でいっぱいだったのには驚きました。


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翌朝は4時に起きて前夜に予約しておいたタクシーで国見ヶ丘へ行き、祈る気持ちで待った甲斐あって、朝焼けに輝く雲海を眼下に拝むことができました。この時の感動は忘れられないなぁ。神様はいるんだ、とまでは思わなかったけど。


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※通常、雲海が見れるのは9月~11月。7月に見られたのは奇跡と、タクシーの運転手の方も驚いていました。


最後に訪ねた日本最大級の古墳群である西都原古墳群、ここでは古墳の数に圧倒されました。弥生時代から古墳時代にかけて、この日向の地に当時の日本最大と言ってもいい一大勢力が存在した事実を認めない訳には行かず、南九州を支配した集団、すなわち狗奴国の王族の墓域であると確信を持ちました。西都原考古博物館の展示も見事でした。


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こんな感じで現地で感じたことや考えたことを取り込みながら自分の仮説が形成されていったことで、古代の日本(いわゆる大和政権)が成立したプロセスを解き明かしたい、という思いが強くなっていきました。そういう意味でこの宮崎旅行は、準備段階で徐々に充填されていった古代史エネルギーに点火された瞬間だったと言えます。


実はこの宮崎旅行の直前、ツアー企画メンバー3人で大和の纏向遺跡を訪ねました。次回はそのお話を。


大和 健(やまとたける)
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ブログ:古代日本国成立の物語
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