古代史構想学 のカテゴリ

若かりし時の「考古学者になりたい」夢を、50代から再開。全国の遺跡の実地踏査、ブログでの独自説発信など、素人ならではの古代史構想学を楽しみ始めました。さて、いきつく先はどこなのでしょうか?

男50歳からの古代史構想学(10) 熊野はややこしい

古代史構想学もいよいよ第10回目。こんにちは、古代史勉強家の大和健です。
今回より実地踏査の舞台を奈良の葛城から和歌山の熊野に移したいと思いますが、ここで奈良の纒向を一緒に回った清田さんと佐々木さんに再び登場していただきます。
 
昨年2016年の2月、記紀の神武東征説話と徐福伝説を訪ねて、私たち三人は私の自宅がある大阪の富田林を出発地として一泊二日の熊野ツアーに出かけました。
熊野へは国道168号線で奈良県十津川村を縦断するルートです。
余談になりますが、途中、清田さんがどうしてもと主張されたので、古代史とは関係ないのだけど、日本一高い吊橋である「谷瀬の吊橋」に立ち寄りました。
ここで意外な事実が発覚。佐々木さんが吊橋を渡らないとおっしゃるのです。
理由をたずねると、なんと高所恐怖症とのこと。
長いお付き合いなのに初めて知る事実。やむなく二人で渡ることにしました。
とは言うものの、私はここには毎年キャンプで来ていて何度も渡った経験があったので、実は清田さん一人の為であったと言っても過言ではありません。
来年には田舎の高松に戻られる清田さんにとってはいい思い出になったことでしょう。
%E8%B0%B7%E7%80%AC.jpeg
 (谷瀬の吊橋)
 
車は山の中をひたすら走り続け、熊野本宮大社へ到着。
ここでまず、熊野あるいは熊野三山についておさらいをしておきましょう。
熊野の地名が日本の歴史に最初に登場するのは720年に完成した日本書紀です。
その神代紀に「イザナミが死んだときに熊野の有馬村に葬られた」と記されています。
平安時代に浄土教が盛んになると、熊野の地は浄土とみなされて歴代の上皇が御幸(ぎょこう)しました。
その信仰は民間にも広がり「蟻の熊野詣」と称されるほどに各地からこぞって熊野へ参詣する人で賑わいました。
その参詣のための道が現代によみがえり、熊野古道ともてはやされているのです。 
熊野にある「熊野本宮大社」「熊野速玉大社」「熊野那智大社」の3つの神社をあわせて熊野三山といいます。
熊野は特に平安時代の神仏習合における仏教的な要素が強く残っているために「山」という表現が使われ、さらに熊野の神様も熊野権現と言ったほうが通りがいいようです。
 

ここは全国に三千社ある熊野神社の総本社で、祭神は家津美御子大神(けつみみこのおおかみ)であり、この神様はスサノオノミコトのことであるとされています。
なぜ家津美御子大神がスサノオノミコトのことなのか、私はよくわかっておりません。
実は出雲にも熊野大社があって、こちらもスサノオノミコトが祭神になっています。
出雲にスサノオノミコトを祀る神社があるのは当たり前と思えるのですが、紀伊の熊野にあるのは理解が難しい。
出雲の熊野大社の社伝によると、熊野村の住人が紀伊国に移住したときに分霊を勧請したのが熊野本宮大社の元である、となっているとのこと。
熊野本宮大社は全国熊野神社の総本社であると主張し、もう一方の出雲側はその総本社は出雲の熊野大社から勧請されたと主張する。
どちらも由緒ある大社だけに「本家はこっちだ」と主張しているように聞こえませんか。
おそらく、出雲から熊野に勧請されたのでしょう。
そう考えると紀伊の熊野にスサノオノミコトが祭られる理由が理解できます。
 
%E6%9C%AC%E5%AE%AE.jpg
(熊野本宮大社 本殿)
   
しかし、この熊野本宮大社では主祭神よりも有名なのが日本サッカー協会のシンボルにもなっている三本足の八咫烏です。
記紀の神武東征に登場し、熊野から大和まで神武一行を導いた「導きの神鳥」とされています。
この八咫烏は賀茂氏(鴨氏)の祖先と言われていますが、これについてはまた機会があれば触れたいと思います。
%E3%82%84%E3%81%9F%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%99.jpg
 (本殿鳥居横に立つ八咫烏のノボリ)
  
本宮大社は現在の本殿から約500メートルのところ、もともと新宮川の中州だったところに元の本殿がありました。
明治22年の大水害で何から何まで流された結果、現在のところに再建されました。
流された跡地は大斎原(おおゆのはら)と呼ばれ、摂社や末社が祀られています。
%E5%A4%A7%E6%96%8E%E5%8E%9F.jpg
(大斎原への参道。神々しい)
 
現在の本殿も厳かな空気に包まれた素晴らしい雰囲気があるのですが、この大斎原も神々しくて有難く感じるところです。
熊野を訪れた際にはぜひお参りしてください。
 
 
この熊野本宮大社では、神武天皇の一行は東征の際に本当にこの熊野までやってきたのか、本当に険しい山中を大和までどのようにして辿りつくことができたのか、という疑問がわいてきました。
紀伊半島の海岸沿いに難波から熊野へ回ってきたこと、八咫烏の導きで熊野から大和へ行軍したことを感じ取りたかったのが、逆の気持ちになってしまい頭が少し混乱しました。
 
次は新宮川を河口近くまで下ったところにある熊野速玉大社ですが、ここはさらによくわからないところでした。
また次回。
 
 
大和 健(やまとたける)
member_02.png
ブログ:古代日本国成立の物語
http://blog.goo.ne.jp/himiko239ru

男50歳からの古代史構想学(9) 神話は事実から生まれる

古代史構想学の第九回目は葛城踏査レポートの二回目になります。
こんにちは、古代史勉強家の大和健です。

葛城の鴨三社を見た後に向かったのが、高天彦神社(たかまひこじんじゃ)です。
高鴨神社を出て葛城山麓バイパスを少しだけ走ったあと、さらに急な坂を金剛山の中腹まで登ります。
途中、徒歩による参道が車道から分岐していました。歩いて参拝する人もいるのでしょうか。
 
%E9%AB%98%E5%A4%A9%E5%BD%A6%EF%BC%91.jpg 
 
車で登りきったところに神社があります。
駐車場から本殿までの参道は並木道になっていて何ともいえない有難い雰囲気に満ちています。
上の写真にある参道を登ってくると、この並木道につながっています。
  
%E9%AB%98%E5%A4%A9%E5%BD%A6%EF%BC%92.jpg 
   
社務所がなく、今は高鴨神社によって管理されているらしいのですが、境内は綺麗に整備されていました。
この神社の祭神は高皇産霊神(たかみむすびのかみ)であり、天地の初めに天上世界の高天原(たかまがはら)に現れた神様のひとりです。
社名の高天彦は高皇産霊神の別名とも言われています。 
金剛山の中腹、奈良盆地を見下ろす場所に鎮座し、近くには高天原跡地と伝えられるところもあって、いかにもそれらしい雰囲気。
記紀神話をもとに作り出されたテーマパークとも言えそうですが、単純にそうとも言い切れない。
その昔、天孫族からつながる有力者がこの葛城一帯を支配した事実があるからこそ生まれた神話であり、この神社なのだろうと思うのです。
 
%E9%AB%98%E5%A4%A9%E5%BD%A6%EF%BC%93.jpg
 
いま風に言えばパワースポットということになるのでしょうが、そんな安っぽい言葉では語れない雰囲気が漂ういいところです。ぜひ訪ねてみてください。
 
このあとは葛城一言主神社
祭神は一言主大神で、地元では「いちごんさん」と呼んで親しまれています。 
 
一言主大神は第21代雄略天皇が葛城山で狩をした時に天皇と同じ姿をして現れたといいます。
前回に紹介した「事代主神(ことしろぬしのかみ)」は「言代主神」とも言われています。
古代には「事」と「言」の区別がなかったためです。
「言代主神」と「一言主神」、よく似ていると思いませんか。
そうなんです、この二人の神様は同一神と言われているのです。
 
事代主神は鴨族の祖先神で、その鴨族(鴨氏)の有力者が枝分かれして葛城氏になった。
鴨氏は鴨都波神社に祖先神を祀り、葛城氏はこの一言主神社に祖先神を祀っている。
私はそんなふうに考えています。
 
%E4%B8%80%E8%A8%80%E4%B8%BB.jpg
 
葛城氏の祖先神である一言主神が天皇と同じ姿で共に狩をするという話は、葛城氏が天皇と同じくらいの勢力を誇っていたという事実を反映していると言われています。 
  
第三回で紹介した宮崎ツアーの話で仲間のひとりである清田さんが言った「高千穂は神話のテーマパーク」というのがずっと心に引っかかっていたのですが、全てを神話の後にできたテーマパークで片付けるのはやはり違うな、ということを改めて感じました。
何らかの事実があるからこそ後世に伝えられて伝承となり、神話になる。
とすれば、その事実があった場所もまた実際に存在する。
 
葛城では鴨三社、高天彦神社、葛城一言主神社の5つの神社以外に孝昭天皇陵、孝安天皇陵、葛城襲津彦の墓と言われる室宮山古墳を訪ねましたが、また別の機会に紹介することにします。
 
 
大和 健(やまとたける)
member_02.png
ブログ:古代日本国成立の物語
http://blog.goo.ne.jp/himiko239ru

男50歳からの古代史構想学(8)古代史と神社

古代史構想学の第八回目。皆さん、こんにちは。古代史勉強家の大和健です。


今回は昨年の6月に奈良県の葛城一帯を訪ねたときのことを書きます。
ちなみに私の自宅は大阪の富田林市にあり、葛城地方とは金剛山地を挟んで向かい側になります。

訪ねたところは順に、孝昭天皇陵→鴨都波神社→葛木御歳神社→高鴨神社→高天彦神社→宮山古墳→葛城一言主神社→孝安天皇陵、です。
葛城は古代の大豪族である葛城氏の本拠地であり、鴨氏(賀茂氏)の出身地とも言われています。
しかし、ほぼ思いつきの踏査だったために事前の下調べをせず、スマホ片手に回ることになりました。


今回は鴨三社と呼ばれる鴨都波神社、葛木御歳神社、高鴨神社を紹介します。


最初に訪ねたのは下鴨社とも呼ばれる鴨都波神社です。
神社由緒によると、創建は崇神天皇のときで、祭神は積羽八重事代主命(つわやえことしろぬしのみこと)と下照姫命(したてるひめのみこと)となっています。
小さな神社ですが綺麗に整備されていました。
氏子さんたちの敬虔な気持ちの賜物だろうと感じました。
この神社の下には弥生時代の遺跡があり、裏手を走る国道24号線を挟んだ西側からは一辺が20メートルほどの方墳が発掘され、三角縁神獣鏡などの副葬品が出ました。
この墳墓の主は祭神である事代主命と関係がありそうです。
このことから、私は事代主命は鴨氏、葛城氏につながりる神様だと考えるようになりました。
IMG_3704.JPG


次に中鴨社と呼ばれる葛木御歳神社。
祭神は御歳神(みとしのかみ)といって、古事記ではスサノオ命の孫神とされ「お年玉」の語源になったとも言われている神様です。
裏手の御歳山をご神体とする小さな神社で、女性の宮司さんが神社の横でサロンカフェを営んでいます。
この日も地域の女性が集まって貸切で会合をしていました。
営利目的のカフェではなく、地域のコミュニティを守っていきたいという思いを感じました。
お参りしている時に体長が15センチほどの小さなヘビを見つけました。
神様が姿を見せてくれたのでしょうか、第五回で紹介した三輪山の大物主神の話を思い出しました。
IMG_3702.JPG


最後に高鴨神社。
御歳神社を出て国道24号線を少し南下したところを右折すると、道路は金剛山に向かって急な坂になります。
アクセルをグッと踏み込んで一気に登りました。
このあたりにも弥生時代の遺跡があり、神社由緒によると鴨族発祥の地となっています。
高鴨神社は京都の上賀茂神社や下鴨神社を含む全国の賀茂社の総本宮で、祭神は阿遅志貴高日子根命(あじすきたかひこねのみこと)、別命を迦毛之大御神(かものおおみかみ)といいます。
鴨族は弥生時代中期に山を降りて鴨都波神社や御歳神社あたりに住むようになったということです。
しかし、山を降りたとされるあたりから弥生時代前期の水田跡が検出されています。
時代が少しずれていることから私は、神社由緒とは違う考えを持つようになりました。
さらに、通説では出雲の神とされる事代主や阿遅志貴高日子根についても「実は葛城の神ではないか」という考えも持っています。
IMG_3703.JPG



記紀や風土記などを読んで、参考となる書籍を読んで、ネットでもいろいろ調べ、さらに現地を訪ねて地形や景色を確認し、肌で空気を感じることで自分なりの考えが形作られていきました。
これが古代史に取り組む醍醐味ではないでしょうか。
そしてこの葛城踏査で、古代史の探究に神社の考察が欠かせないことを認識することができました。



大和 健(やまとたける)
member_02.png
ブログ:古代日本国成立の物語
http://blog.goo.ne.jp/himiko239ru

男50歳からの古代史構想学(7)古代史にリアリティを

こんにちは、古代史勉強家の大和健です。
7回目の今回はいよいよ纒向遺跡の中心を見て回った様子を書こうと思います。

実は纒向遺跡は九州の吉野ヶ里遺跡のような史跡公園になっているわけでもなく、358本もの銅剣が出土した出雲の荒神谷遺跡のように発掘時の状況が再現されているわけでもありません。
発掘された場所は全て埋め戻されていて遺跡を遺跡として認識することはできません。案内板が立っているだけなのです。
だから実地踏査と言ってもやることは、その場に立って何かを感じること、それをもとに考えること、くらいなんです。

でも、この「感じること」と「考えること」というのがものすごく意味があると思うのです。
本を読んだり講演を聴いたりして得た知識をもとに机上で考えることはもちろん重要かつ必要不可欠なのですが、実地踏査はそこにリアリティを加えることができるのです。
これによって自分の仮説の確からしさ、あるいは説得力が高まるのだと思います。


埋蔵文化財センターを出た私たちは来た道を戻り、日本最古の道といわれる「山辺の道」に入り、その後は「茅原大墓古墳→ホケノ山古墳→箸墓古墳→纒向石塚古墳→辻地区(大型建物跡発掘地)→纒向勝山古墳→纒向矢塚古墳」という順に回りました。いくつかを紹介します。
 
 
①茅原大墓古墳(ちはらおおはかこふん)
古墳時代中期(5世紀前半代)の帆立貝式前方後円墳で全長は85メートル。
「帆立貝式」とは前方後円墳の前方部の長さが短く、ホタテ貝のような形をしていることからこのように呼びます。
前方後円墳の原型と言われ、3世紀にこの纒向で発生したと考えられていることから「纒向型前方後円墳」とも呼ばれます。
しかし、この古墳に登ってまず「これは円墳だ」と思いました。というのも上から見ても前方部が確認できなかったのです。
おそらく後世に盛土が削られたのでしょう、畑として利用されていたからわからなくなっていました。
それでも帆立貝式前方後円墳というからには、発掘の結果としてそれが確認されたのだと思います。
このように古墳は後世に盛土が削られることがよくあるのです。
 
 
②ホケノ山古墳
3世紀中頃に造られた纒向型前方後円墳で全長が90メートルで後円部の直径が60メートル。
1999年からの発掘で重厚で独特な埋葬施設が見つかり、一躍脚光を浴びました。
築造時期が卑弥呼が亡くなった時期に合っていること、この埋葬施設が女王の亡骸を納めるのに相応しい「しつらえ」であること、直径が60メートルということは60センチくらいの小さな歩幅であれば100歩となり、魏志倭人伝にある「径百余歩」という記述と合っていることなどから、この古墳が卑弥呼の墓ではないかと考えています。
山すその少し標高の高いところにあって、墳丘に登ると纒向一帯を見渡すことができる、というのも理由のひとつです。
これは実際に登ってみてわかったことです。
    %E3%83%9B%E3%82%B1%E3%83%8E%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3.jpg
    (桜井市のホームページより)
 
 
③辻地区(大型建物跡発掘地)
卑弥呼の神殿ではないかと騒がれた3世紀前半のものと推定される大型建物跡が発掘されたところです。
建物跡は4棟分が発掘され、最大のものは床面積が238平米でかなりの広さになります。
この最も大きい建物がいちばん東にあり、そこから西にむかって一直線に3つの建物が並んでいることから、この4棟は計画的に建設されたと考えられます。
この建物群の主は、東の山々から昇る太陽を拝み、おもむろに振り向いて西の建物に控えた者にお告げを伝える、そんな状況が浮かんでくるのです。
とはいえ、この現場は全て埋め戻され、いわゆる「原っぱ」状態になっていたので、これはもう想像の世界に入りこむしかないのです。

 
こんな感じで纒向ツアーを終えた私たちは近鉄電車で難波へ出て、がんこ寿しで互いの労をねぎらいました。


私はもともと纒向に邪馬台国があったと考えているので、纒向を訪ねる目的はそれを補強するための材料探しということになるのですが、一方で、邪馬台国が別のところにあったと考える人にとっては全然違った見方になるのだろうと思います。
たとえば、吉野ヶ里遺跡が邪馬台国だと考える人はこの纒向遺跡をどのように捉えるのだろうか、というのを聞いてみたい気持ちがあります。
ただ、他の人の考えを否定したり反論するつもりは全くなく、むしろ部分的に使えるところはないかな、とすら考えています。

これからも自説を紹介していくと思うのですが、「おとなの学び」ではそれをわかってもらいたいという思いよりも、私がいかに古代史を楽しんでいるか、というのお伝えしたいと思っています。

次回からは、一年前の6月に一人で巡った奈良県の葛城地方について書いてみたいと思います。
 
 

大和 健(やまとたける)
member_02.png
ブログ:古代日本国成立の物語
http://blog.goo.ne.jp/himiko239ru

男50歳からの古代史構想学(6) 三輪の名物と言えば

第六回目。大和健です。


纒向遺跡ツアーの続き、今回は三輪山登拝後の至福のひとときを紹介します。


三輪山登拝を終え、狭井神社のご神水でひと息ついて時計を見るとすでに12時を回っていました。
炎天下での2時間の山登りで疲労困ぱいの上に体温の上昇も甚だしく、ランチ休憩をとることにしました。
入ったお店が大神神社の二の鳥居近くの福神堂という御食事処。
お昼どきでそこそこお客さんがいたように記憶しているが、たまたま空いていた奥の小上がり席に陣取ってメニューを開け、まずは当然のように生ビール。
そして食事は何と「そうめん」。


関西人にとってそうめんというのはお中元でいただくもので、自分でお金を払って食べるものではないのです。
それでもこの時ばかりはメニューにあった冷たいそうめんの写真が何と美味しそうに見えたことか。
エアコンとビールとそうめんでようやく体温が下がって正気が戻るかと思いきや、疲れた身体に程よくアルコールが回って何ともいえない心地よさ。


%E4%B8%89%E8%BC%AA%E3%81%9D%E3%81%86%E3%82%81%E3%82%93.jpg


さて、ここから脱線。
その昔、山頂の大物主神に拝礼するために毎朝太陽が昇るとともに三輪の山に入る神職がいた。
春夏秋冬、暑いときも寒いときも往復2時間の道のりを黙々と歩いた。
そして登拝を終えるとようやく朝餉(あさげ)だ。
登拝を終えた神職の身体は、暑いときには身体を冷ます食べ物を、寒いときには身体を温める食べ物を欲した。
長期間の保存ができて、良質のたんぱく質が摂取できて、冷たい食べ方でも温かい食べ方でも簡単に調理ができるもの、「そうめん」は古代の神職の知恵が生んだ食べ物ではないだろうか。
三輪の地はそうめん発祥の地である。


そう思って「三輪素麺」で検索。Wikipediaによると
「6世紀から7世紀に仏教伝来と共に小麦栽培・製粉技術が伝えられたとされている。
伝説によると大和三輪において紀元前91年(崇神天皇7年)、大物主命の五世の孫である大田田根子命が大神神社の大神主に任ぜられ、その十二世の孫である従五位上大神朝臣狭井久佐に次男穀主が初めて作ったという。」
とある。
当たらずとも遠からず。これも実地踏査のなせる業(わざ)か。


いつまでも休んでいるわけにも行かず、重い腰を上げて向かった先が桜井市立埋蔵文化財センター。
ここには纒向遺跡から発掘された貴重な遺物が展示されています。
展示物の数はそれほど多いわけではないのですが、とにかく貴重なものばかり、レプリカではなく本物が並んでいるのです。
少なからず興奮状態に。
しかし、このときはまだそれほど詳しく纒向遺跡を勉強していたわけではないので、ひとつひとつの遺物の意味がよくわかっていなかったのですが、その後に勉強を重ねていくと「もっとしっかり見ておけばよかった」という後悔の念がフツフツと沸いてきました。


それでもここでひと通りの情報をインプットして、いよいよ私たち3人は纒向の中心に向かってペダルを漕ぎだしました。


最後に、これから何度も登場してもらうことになるので、私とともに纒向を訪ねたメンバー(=宮崎ツアー企画メンバー)の正体を明かしておきます。
ひとりはこの「おとなの学び★ニュース」の編集長でもあり、セカンドアカデミー(株)代表の佐々木偉彰さん。
もうひとりは「清田(きよた)日記~男50歳からの資格取得」というタイトルで私とともに「おとなの学び★ニュース」で発信されている清田一人さんです。
3人とも50代後半、100年ライフを目指してそれぞれの生涯学習に取り組んでいる真っ最中です。


ではまた次回。


大和 健(やまとたける)
member_02.png
ブログ:古代日本国成立の物語
http://blog.goo.ne.jp/himiko239ru


男50歳からの古代史構想学(5)苦行、三輪山登拝

ついに第五回目までこぎつけました。古代史勉強家の大和健です。
今回はまず纒向ツアーのメインイベントであった三輪山の登拝を紹介したいと思います。

三輪山は奈良盆地の南東部、奈良県桜井市にある標高467mの山で、三諸山(みもろやま)とも呼ばれ、御諸山とも記されます。
古代より自然崇拝の対象とされ、山そのものがご神体であるため、神職以外は入山できなかったのですが、明治以降は入山心得を守れば誰でも登れるようになったそうです。
ご神体に登ることから、登山ではなく登拝と言われています。

なお、登拝時の写真撮影は厳禁。そして後日には、登拝時に見たことを口外してはならない、ということを耳にした(目にした?)のですが、あらためて大神神社のサイトで確認してもそんなことは書いていないので、当たり障りのない範囲でお伝えします。
これから三輪山へ行ってみようと考えられている方の参考になればと思います。


三輪山への登拝は大神神社の摂社である狭井神社での受付から始まります。
300円の登拝料を支払うと三輪山参拝証と記されたタスキが渡されます。
これは記念になるので持ち帰りたくなるのですが、登拝後に返却しなければなりません。
安全に下山したことを確認するためとのこと。
そうなんです。三輪山登拝は危険を伴う登山ということです。
なのに、何の下調べもしていなかった私はこの後、思い知らされることになるのです。

%E4%B8%89%E8%BC%AA%E5%B1%B1%E5%8F%82%E6%8B%9D%E8%A8%BC.jpg


6月の初夏というにはあまりに厳しい日差しの中、帽子もタオルも持たず、さらにはあろうことか、給水の備えもせずに登拝に挑んでしまったのです。
当然のことながら途中に自販機などなく、休憩個所もほとんどありません。
いったん入山してしまうと頂上を目指してただひたすら歩を進めるのみ。


苦行でした。


帽子、タオル、水を持たなかったことを全身全霊で後悔しました。
やっとの事で頂上にたどり着いたものの、日陰がなく、座るベンチもなく、山頂の高宮神社で手を合わせ、磐座を確認して早々に下山しました。
下山後は狭井神社境内に湧き出るご神水でようやくノドの、いや全身の渇きを潤すことができました。


<<佐々木編集長の割り込み>> ※編集長も古代史ファンなのです
「磐座」と書いて、「いわくら」と読むのですね。
言葉どおり、大きな岩のことで、「岩倉」と書く場合もあります。
日本全国の多くの神社で、「磐座」がご神体となっています。
古代日本の信仰は、「磐座」信仰であったと言えるかもしれません。
たとえば、阿智神社の磐座(Takacchiさん提供)
9e1fd707ad37025a429a20491515c983_s.jpg
(割込、以上)


往復で約2時間。
季節や天候にもよると思いますが、もしこれから行ってみようという方がおられたら、それなりの備えをお勧めします。
狭井神社では杖を貸してもらえるのでそれもあった方がいいでしょう。
ご神体に失礼になるからということか、靴を脱いで裸足で登拝する人を見かけましたが、危険だなと思いました。


時計はすでに12時を回っていました。
実はこのような苦行のあとに私たちを待っていたのは至福のひと時だったのです。
続きは次回。


<おまけ>
三輪山の説話は日本書紀や古事記の崇神天皇紀に出てくるのですが、ここで日本書紀のほうを紹介します。
有名な話なのでご存知の方も多いかと思います。


卑弥呼ではないかとも言われている倭迹々日百襲姫命(やまとととひももそひめ)という女性がいました。
彼女は大物主神と結婚しました。しかし夫は夜にしか現われず、その容姿を知ることができませんでした。
あるとき夫に「その姿を見たいので朝までいて欲しい」と懇願し、夫は「その気持ちはよくわかるので明朝にあなたの櫛笥(櫛を入れる箱)に入っていよう、ただし、私の本性に驚くなよ」と伝えました。
彼女は夜が明けてからその櫛笥を見てみました。すると、とても麗しい小蛇がいました。
それで驚いて叫んだところ、夫は恥ずかしく思ってすぐに人の形になりました。
「お前、我慢が出来ずにわたしに恥をかかせたな。 わたしも山に還って、お前に恥をかかせよう」
それで大空を飛んで御諸山(三輪山)に登りました。
彼女はそれを仰ぎ見て後悔して、ドスンと座りました。
そのとき、箸で陰(ほと)をついて亡くなりました。
それで大市に葬りました。世の人はその墓を箸墓と名付けました。


箸墓が卑弥呼の墓であるといわれるひとつの根拠になっている説話です。
その箸墓は陵墓参考地「大市墓」として宮内庁が管理しているために柵がめぐっていて、周囲から眺めることしかできません。
しかしそれにしても、箸墓の名の由来を伝えるのなら、もう少し上品な話にできなかったのでしょうかね。


大和 健(やまとたける)
member_02.png
ブログ:古代日本国成立の物語
http://blog.goo.ne.jp/himiko239ru


男50歳からの古代史構想学(4) 纒向でのヒラメキ

こんにちは、大和健です。今回で第4回目です。
「古代史構想学」というタイトルに見合った内容になっているのか少し不安がありますが、思うままに書いていきますのでこれからもお付き合いください。
今回は宮崎ツアーに先駆けて訪れた奈良の纒向遺跡について書きたいと思います。


纒向遺跡は奈良県桜井市の三輪山の北西麓一帯にある弥生時代末期から古墳時代前期(3~4世紀)にかけて栄えたと考えられている集落遺跡です。
3世紀といえば卑弥呼の時代にあたります。卑弥呼や邪馬台国が登場する中国の史書である「魏志倭人伝」には、西暦239年に魏の皇帝が卑弥呼に対して「親魏倭王」の称号とともに金印を授与したことが記されています。まさにその時代に繁栄していたのがこの纏向遺跡なのです。


神殿ではないかと言われている大型建物跡、祭祀に用いたと思われる2千個もの桃の種、同じく祭祀用と思われる導水施設、日本各地から搬入された土器、護岸工事が施された水路などが発掘される一方で、人が住んだ住居跡がほとんど出ていないため、政治や祭祀を執り行うことを目的に建設された政治都市であると言われています。
また、初期の前方後円墳である箸墓(はしはか)や、その前方後円墳の原型と言われているホタテ貝型古墳がいくつも存在することから、大きな政治勢力がこの地にあったことは間違いないのです。
これらの状況に加えて魏志倭人伝や記紀の記述を読み解いた結果として、私はここが邪馬台国であったと考えるのが最も蓋然性が高いと思うに至りました。


%E3%81%BE%E3%81%8D%E3%82%80%E3%81%8F%E8%88%AA%E7%A9%BA%E5%86%99%E7%9C%9F2.jpg
(左側が北です)


さて、話はちょうど4年前の2013年6月16日にさかのぼります。
朝9時、宮崎ツアーの企画メンバー3人は近鉄大阪線の桜井駅で落ち合い、レンタサイクルを借りて「桜井駅→三輪山登拝→桜井市立埋蔵文化物センター→茅原大墓古墳→ホケノ山古墳→箸墓古墳→纒向石塚古墳→辻地区(大型建物跡発掘地)→纒向勝山古墳→纒向矢塚古墳→桜井駅」という行程で巡りました。
この実地踏査においても私なりに得ることがたくさんあったのですが、何よりも桜井駅に降り立ったときに閃いたことが最大の収穫でした。


日本書紀によると、初代天皇である神武天皇から第9代の開化天皇までの神武王朝における皇居および陵墓のほとんどが、この桜井駅よりも南の磐余(いわれ)や葛城の地にある一方で、第10代の崇神天皇から3人の天皇の宮は北側の纒向近辺に営まれ、崇神天皇と第12代景行天皇はその陵墓も同じく纒向にあるのです。
私は約半年ほどの思考の結果、第9代までの神武王朝と第10代以降の崇神王朝はつながっていない別々の王朝であると考えるようになっていました。そして閃いたのです。つい今しがた乗ってきた近鉄大阪線はこの二つの王朝を分断する国境線ではないか!


神武天皇は九州において倭国との戦いに勝利したあと、大和を目指して東征し、そして奈良盆地の南部の葛城・磐余に進出して勢力基盤を築いた。
一方で崇神天皇は纒向を拠点に大きな勢力をもち、魏志倭人伝に記される邪馬台国として連合国家である倭国を統治していた。
狗奴国王の神武は倭国の本丸である邪馬台国に乗り込んできたのだ。そして近鉄大阪線を挟んで両国が対峙することとなった。


私の頭の中でこの図式ができあがった瞬間でした。


%E7%8E%8B%E6%9C%9D%E4%B8%A6%E7%AB%8B%E3%81%AE%E5%9B%B3.jpg


次回はこの纒向実地踏査でのエピソードを紹介しましょう。


大和 健(やまとたける)
member_02.png
ブログ:古代日本国成立の物語
http://blog.goo.ne.jp/himiko239ru

男50歳からの古代史構想学(3)古代史熱に火をつけた宮崎旅行

今回で3回目となります。素人古代史勉強家(研究家と名乗るのはおこがましい)の大和健です。
今回は古代史にはまる直接のきっかけとなった仲間との宮崎旅行を紹介したいと思います。


このツアーのテーマは前回でも書いた通り「神話の里を訪ねる旅」でした。
1泊2日のツアーは「熊本空港→阿蘇大観峰→天岩戸神社→高千穂峡→高千穂神社→ホテル高千穂(泊)→クルスの海→大御神社→西都原古墳→宮崎空港」という行程だったと記憶しています。


しかしながらこのツアーは、自分の脚で現地へ赴き、自分の五感で感じ、自分の頭で考える、いわゆる実地踏査の重要性を認識した貴重な体験となりました。
結果的にこのツアーで感じて考えた多くのことが自分の仮説を補強することになりました。例をあげてみます。


熊本から阿蘇を抜けて高千穂へ入るルートを辿ったことで、高千穂の地が阿蘇山と眼と鼻の先であることが確認できました。その後の勉強で、阿蘇の北側に弥生時代に大規模な戦闘があったことを想定させる数多くの遺跡が存在することを知り、魏志倭人伝に記される女王卑弥呼が統治する倭国と南九州の狗奴国による戦闘の痕跡ではないかとの考えを持つに至って、高千穂は狗奴国が大本営を置いた場所である、と考えるようになりました。
また、地図で見ると山間の狭い土地だと思っていた高千穂は意外にも水田の広がる豊かな土地でした。南九州から北進してきた狗奴国が拠点を設けるには十分な場所です。


DSC05983.jpg


パワースポットでも有名な高千穂では、天岩戸神社の奥にある天安河原を流れる小川からパワーを受けて、ここに神々が集まったという話を創作した古代人の感性に感心しました。一方で、高千穂は神話のテーマパークだと言った同行メンバーの言にも頷かされたり。
神話が先か、出来事が先か。これは古代史を解き明かすときの重要なポイントなのです。


DSC05970.jp


高千穂神社では、神武天皇が馬に乗って東征に出発しようとする姿が眼に浮かび、狗奴国の王が神武天皇であり、狗奴国は倭国に勝利した結果として次に東を目指したのだ、と考えるようになりました。そして後日に地図を見て、高千穂から日向灘に流れる川の名(五ヶ瀬川)が神武の兄の名前(五瀬命)と同じであることに気がつきました。


DSC00765.JPG


ホテル高千穂で夕食をとった後に高千穂神社に戻って観た夜神楽は、この地で代々に渡って脈々と神様の話が受け継がれてきたことを強く感じました。今では、これは創り話としての神話を体現するためのものではなく、この地で起こった何らかの史実が神話に取り込まれたことを自慢する、あるいは祝うためのものではないかとすら考えるようになりました。
それにしても、そこそこ広い会場が老若男女でいっぱいだったのには驚きました。


DSC06002.jpg


翌朝は4時に起きて前夜に予約しておいたタクシーで国見ヶ丘へ行き、祈る気持ちで待った甲斐あって、朝焼けに輝く雲海を眼下に拝むことができました。この時の感動は忘れられないなぁ。神様はいるんだ、とまでは思わなかったけど。


DSC06021.jpg
※通常、雲海が見れるのは9月~11月。7月に見られたのは奇跡と、タクシーの運転手の方も驚いていました。


最後に訪ねた日本最大級の古墳群である西都原古墳群、ここでは古墳の数に圧倒されました。弥生時代から古墳時代にかけて、この日向の地に当時の日本最大と言ってもいい一大勢力が存在した事実を認めない訳には行かず、南九州を支配した集団、すなわち狗奴国の王族の墓域であると確信を持ちました。西都原考古博物館の展示も見事でした。


DSC06052.jpg


こんな感じで現地で感じたことや考えたことを取り込みながら自分の仮説が形成されていったことで、古代の日本(いわゆる大和政権)が成立したプロセスを解き明かしたい、という思いが強くなっていきました。そういう意味でこの宮崎旅行は、準備段階で徐々に充填されていった古代史エネルギーに点火された瞬間だったと言えます。


実はこの宮崎旅行の直前、ツアー企画メンバー3人で大和の纏向遺跡を訪ねました。次回はそのお話を。


大和 健(やまとたける)
member_02.png
ブログ:古代日本国成立の物語
http://blog.goo.ne.jp/himiko239ru

男50歳からの古代史構想学(2) 邪馬台国の研究は推理小説から

こんにちは、古代史構想学の第二回目、古代史を勉強中の大和健です。


前回の記事では私が古代史や考古学の道に進むことを諦めた経緯を書いたのですが、実は大学を経て社会人になってからもその方面への興味が失せることはなく、関連する本を読み続けてきました。
謎解きが好きな私が若い頃によく読んだのが邪馬台国や卑弥呼を題材にした推理小説です。
先日、大阪の実家に帰った時に本棚を探してみるとこんなにありました。


 「邪馬台国殺人考」 長尾誠夫
 「『邪馬台国の謎』殺人事件」 木谷恭介
 「『邪馬台国の謎』殺人事件」 深谷忠記
 「邪馬台国の殺人」 中津文彦
 「『マ』の邪馬台国殺紀行」 荒巻義雄
 「卑弥呼殺人事件」 阿井渉介
 「卑弥呼塚殺人事件」 島田一男
 「邪馬台国はどこですか?」 鯨統一郎
 「卑弥呼伝説地に降りた神々」 井沢元彦
 「邪馬台国殺人旅情」 斎藤栄
 「卑弥呼の殺人」 篠田秀幸
 「『古代四国王朝の謎』殺人事件」 吉岡道夫
 「幻の騎馬王朝」 邦光史郎
 「箸墓幻想」 内田康夫
 「陸行水行」 松本清張
 「邪馬台」 北森鴻・浅野里沙子


邪馬台国や卑弥呼は作家にとっても謎解きの興味をそそられるネタなのでしょう。
井沢元彦氏、松本清張氏は専門家顔負けの古代史研究家と言って間違いないと思います。
読者の皆さん、もしも今から邪馬台国や卑弥呼を勉強してみようという方がおられたら、専門的なことはさておき、こういうところから入るのもアリではないでしょうか。


実家にはこれらの他にもたくさん(数十冊くらい?)の本がありました。
ただ、これだけの数を読んだにもかかわらず、当時はまだ自分の仮説もなくただただ興味にまかせて読んでいただけなので、内容については一片の記憶も残っていません。
だから時間がある時にもう一度読み直してみようと思っています。


私は2013年の年明け頃から少し真面目に古代史への取り組みを始めました。
その年の夏、とあるコミュニティで旅行に行くことになり、その企画を二人の仲間と一緒に考え始めたのがきっかけです。二人とはいわゆる飲み仲間で、古代史を話題に飲むこともよくあって、そんなことから旅行の企画が始まりました。


旅の行き先は宮崎、コンセプトは神話の里を訪ねる旅。企画を練り上げる中で、旅行までに魏志倭人伝を暗記しておくこと、邪馬台国について自分の考えをまとめておくこと、という課題が決まったのです。
これが1月頃のことで、少なくとも二人よりも詳しいと自負する私は旅行までのおよそ半年、かなりの時間を魏志倭人伝や邪馬台国に費やすことになりました。
このとき、30年以上に渡って封印してきた古代史への想いが心の底から溢れ出てくるのを感じました。


実はこれとほぼ同じタイミングで異動の内示を受けていたのですが、これが会社にとって最も重要と言っても過言でない組織への異動内示でした。
本来であればその方面の勉強を始めるべきところでしたが、一度騒ぎ出した血は収まるはずもなく、仕事の勉強はついつい後回しに。


そしてこのときに自分の考えを「邪馬台国畿内説を論証する」と題するレポート(A4で11枚)にまとめました。
そうです、私は邪馬台国畿内説を採っております(が、その邪馬台国が大和政権になったとは考えておりません)。
今回の機会にあらためて読んでみたのですが、このときに書いたことが今でも自分の仮説の骨子になっていることが再確認できました。そのときに参考にした主な書籍を以下に紹介しておきます。


 「天皇家のふるさと日向をゆく」 梅原猛
 「出雲神話の誕生」 鳥越憲三郎
 「古代史9つの謎を掘り起こす」 関裕二
 「『日本神話』の謎と真実」 三浦竜
 「日本古代史を科学する」 中田力
 「『出雲』からたどる古代日本の謎」 瀧音能之
 「古事記と日本の神々」 吉田敦彦
 「出雲と大和 古代国家の原像をたずねて」 村井康彦
 「蘇我氏の正体」 関裕二
 「邪馬台国は甦る!」 木谷恭介
 「吉備の古代史」 門脇禎二
 「古代天皇はなぜ殺されたのか」 八木荘司
 「『古代日本』誕生の謎」 武光誠
 「王権誕生」 寺澤薫
 「邪馬台国をとらえなおす」 大塚初重
 「邪馬台国の候補地 纏向遺跡」 石野博信
 「歴史群像 特別編集『最新 邪馬台国論』」 学研社
 「歴史法廷 特集『邪馬台国はここにある』」 世界文化社

----------------------------------------------------------------------------------
※(割り込みですみません)実は、古代史も好きな編集長佐々木のオススメ3冊
『古代史を科学する』 有名な脳科学者である、中田力氏が、魏志倭人伝の記述から邪馬台国の場所を解き明かす。キラリと光る古代史構想学。邪馬台国日向説。これを読んで、古代史実地踏査、高千穂ツアーが始まりました。
『古代史 9つの謎を掘り起こす』 東の井沢元彦、西の関裕ニ。関裕ニの大回転的な邪馬台国論の入門編としては、最適。邪馬台国北九州説だが、高千穂への天孫降臨、神武東征と続き、大回転します。
『出雲と大和』 なんと言っても、魏志倭人伝に書かれる、邪馬台国の「四官」の解釈は、超オリジナル。また、出雲から大和につづく、磐座信仰。これを読むと、三輪山に登らずにはいられない。
----------------------------------------------------------------------------------


難しい専門書の類はひとつとしてなく、どれも文庫、新書、雑誌です。素人は素人らしく背伸びをしないこと


今回は本の紹介のようになってしまいましたが、次回は宮崎旅行を紹介したいと思います。

大和 健(やまとたける)
member_02.png
ブログ:古代日本国成立の物語
http://blog.goo.ne.jp/himiko239ru

男50歳からの古代史構想学(1)おやじバンド、諦め、古代史に夢を

皆さん、初めまして。わたくし、大和健(やまとたける)と申します。


これから「男50歳からの古代史構想学」と題して、50代も半ばを過ぎてから古代史の研究にのめり込むことになった背景やその実態を綴って参ります。
サラリーマン人生の終末期を前にして未だ第2の人生の過ごし方を決め切れずに右往左往する姿を、古代史謎解きとともに楽しんでいただければ幸いです。


さて、世の中では数年前から「おやじバンド」が流行っています。会社の先輩にもはまっている人がいて羨ましいと思ってみています。


中学2年になった頃にいとこからクラシックギターを譲ってもらい、フォークソング、ビートルズ、ベンチャーズなんかを我流で弾いていました。
文化祭では上級生が体育館でコンサートをやっていて、来年は自分もやりたいと思って仲間とバンドを組みました。
翌年、体育館が建て替えのために使用できなくなるというアクシデントにもめげず、先生に相談して校庭での開催にこぎつけ、本番では友達から借りたエレキギターでベンチャーズとビートルズを何曲か演奏し、締めはチューリップの「心の旅」だったと記憶してます。
文化祭が終わると3年生は受験にまっしぐら。バンドは解散し、ギターを手にする機会は激減しました。
そして高校入学後はもう一度ギターをやりたいという気持ちを押し殺して勉学に励み、結局そのままやめてしまいました。だからおやじバンドが羨ましいのです。
だったらやればいいじゃないか、という声が聞こえてきそうだけど、自分の腕前ではムリなのはよくわかっているのです。

2780204f580b55ed6ca3f962cd4ca76f_s.jpg
最後の曲が「心の旅」だった。青春の1ページ


おっと、古代史の話を書くつもりがいきなり違う話を長々と書いてしまいました。
そんなことでギターをあきらめた私ですが、実はもう一つあきらめたことがあるのです。
それが古代史への想いです。小学校6年生のときの作文に「考古学者になりたい」と書いたくらいなので、こっちのほうが本気度が高かったかもしれません。
小学6年の社会の勉強で邪馬台国や卑弥呼を習ったときに、なんともいえない興味を覚えたのです。子供の頃から謎解きが好きだったので同じような感覚になったのでしょうか。それ以来、歴史の勉強が大好きになりました。


高校でギターをあきらめてまで勉強に精を出した私ですが、考古学者や歴史学者になりたいという気持ちは細々ながら持ち続けていました。当時のいわゆる共通一次試験(今でいうセンター試験)の社会の科目選択では最も点数が取りにくい組み合わせと言われていた「日本史」と「世界史」で受験することを早々に決めて受験勉強に励みました。そして、いよいよ受験する学部を決めるときになって少し考えました。古代史や考古学をやるなら文学部。
しかし、ここで子供の頃から親に刷り込まれてきた「いい大学に入って、いい会社に就職する」という価値観に負けてしまったのです。受験した学部は経済学部や法学部。結局、ここでも自分の夢をあきらめてしまったのです。


いい大学に入って、そこそこいい会社に入った私のサラリーマン人生は概ね満足のいくものでした。だから、あのときの選択が間違っていたとは全く思わないのですが、そのサラリーマン人生もいよいよゴールが見えてきました。おやじバンドは無理だけど、古代史なら今からでも楽しめる。自分の考えを本にして世の中に送り出すこともできる。それって凄くない?

17022101_1230046103782767_7382363859504907747_n.jpg
ディテールの研究は専門家に任せる。古代史の骨格を構想するのは私たち素人。



そんなことで4年ほど前から取組みを始め、一昨年の秋頃からいよいよ本格的になってきた古代史研究。仕事そっちのけで没頭することもしばしば。昨年の夏から自分のブログでの発信も始めました。第2の人生の入り口に立って、少しばかりワクワクしながら好きなことに取り組む様子をお伝えできればと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。

大和 健(やまとたける)
member_02.png
ブログ:古代日本国成立の物語
http://blog.goo.ne.jp/himiko239ru

↑ページの先頭へ

Copyright 2010 Second Academy CO.,LTD All rights reserved.