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五感で感じる ~ 縄文と弥生が交わる時代の神々と暮らし

 2017年8月5日、麗澤大学オープンカレッジ(ROCK)の特別講演会を聴講しました。


 聴講したのは、麗澤大学教授でROCKカレッジ長の岩澤知子氏の、「『神道』を捉えなおす~諏訪から見た日本のカミ信仰」の講義。


 古代史ファンを自称する私にとっては、そそられるタイトル。諏訪といえば、国譲りを経て、出雲の神であるタケミナカタが開拓した地でもあり、また、諏訪大社の御柱は、新規事業を立ち上げるに通じるということで、知る人ぞ知る、全国の事業家が訪れる地でもある。私も2度にわたり、上社・下社を巡っている。


 岩澤氏の講演は、古代~ちょうど、縄文と弥生が交わる、そんな時代を、五感で感じることができる場(空間X時間)であった

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 「イ・チ・ヒ」と、自らと会場の受講生が声をあげる。「イ」とは息・気・生のことであり、「チ」は力・霊。「ヒ」は日・火・霊。原始の言葉は、一音であったが、「イ」と「チ」が、ある意味、必然的に組み合わさり、「イのチ=命」という言葉が生まれる。


 人は死ぬが、命の再生として生があり、それはすなわち性である。縄文の人々の、そんな命の再生の儀式が、つい最近まで縄文の神の血を継ぐ守矢氏にて執り行なわれていた。御室(みむろ)神事・御頭祭(おんとうさい)と言う。冬至の頃、地面を掘って作った御室の中での再生儀式、75頭の鹿の生首でミシャグジ(古熊の神)を降ろして行なう饗宴。それぞれの儀式の名前は忘れても、この場で感じた、血の肉の味と香りは、忘れることは無いだろう


 一方、「政」を執り行う弥生系の金刺氏(タケミナカタの子孫でしょうか?)は、豊穣を祈る稲作の神「諏訪大明神」となるのであるが、それでも、縄文系の守矢氏の「祭」は「政」にとって、欠くことのできないものであったという。


 その守矢家は現在も続いており、立派な屋敷の奥には祠がある。今でも祠には鹿の頭蓋骨や栗などが供えらる。日本は凄い。縄文時代の家系やしきたりが延々と継がれている。古事記や日本書紀に記載されていない記憶や伝承も残っているに違い無い。


 岩澤氏は、時代を経るにしたがって縄文系の神は、弥生系の神にその牙を抜かれていったと言う。人々が野生から切り離されていく中世になって、かつての血沸き肉踊る生と死と再生の営みを思い起こすために、あの「御柱祭」が復活したと言う。


 後半は、昨年執り行われた数えて7年に一度の「御柱祭」への潜入レポート。DVDから聞こえる木遣り唄と進軍ラッパ。場面は縄文から現代の諏訪に変わる。茅野のパッピに着替えた岩澤氏が、豊富な画像付きで自らの御柱体験をレポートする。そこから導きだされた説には、さすがに説得力がある。縄文の血なまぐさい匂いと映像の進軍ラッパが交差する。まさに、視覚と音、匂い、体、そしてエロスの五感で感じる縄文と弥生の出会いの場であった。


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 私も今年59歳。「実地踏査」と称して、日本各地の神話の地を友人と巡るのが趣味である。断片をかじりながら、古代史の全体像を構想(夢想)している。とは言え、人生100年計画と言われる昨今、残り40年は、表層をなぞりながら各地を巡り続けるには時が長すぎる。
 今日の講演で、岩澤氏がボストンで哲学を学び直した話などを聞くと、男50代、日本の地でのたかだか数年間。今のうちに大学でこの分野を深く学び直すのもいいかもと思った。


 麗澤大学オープンカレッジ(ROCK)では「豊かなアクティブシニアライフ」の為の「知の協創の場」を目指すという。その場での楽しみに留まりがちな、各大学の生涯学習であるが、一歩突っ込んで「知の協『創』の場」を目指したいという岩澤カレッジ長の強い思いを感じた。

2017年後期のROCK特別講演会 
井沢元彦氏・川口マーン惠美氏・塚田真希氏・石 平氏


男50代からの古代史構想学

実地踏査を同行する友人の体験ニュース


<文責:セカンドアカデミー株式会社 佐々木偉彰>


男50歳からの古代史構想学(15) 古代史でセカンドライフを充実

古代史構想学の最終回です。
皆さん、こんにちは。大和健です。
これまで14回にわたって素人の私が自分なりに古代史を学ぶ様子をお伝えしてきました。
最終回の今回は、古代史に取り組み始めたころのことと、古代史を通じてセカンドライフをどう充実させようとしているのか、をご紹介して終わりにしたいと思います。

ビジネスマンとしてのキャリアを店じまいするにあたってセカンドライフをどう過ごそうか、と考えて出した答が「子供の頃からやりたかった古代史をやろう」ということでした。
ただ、古代史をやるといっても何をするのか、何をしたら古代史をやったことになるのか、自分は本当に何をしたいのか、、、
まずは、とにかく何か形を残していこうと漠然と考えて、本を読んだあとに記憶に留めておきたいことをノートに書き残していくことを始めました。
本を読んで線を引き、ノートに書いていく。これはまさに「勉強」でした。
勉強が進むにつれて興味の範囲も広がり、読書の量も増え、様々な事象につながりが見えてくるようになりました。
それを図や表にしたり、文章にまとめたり。
そういうことを続けていた昨年の正月、「年内に本を出そう」という目標が突然浮かんだのです。
 
そう決めたあとは、本を出すといっても何をどうすればいいのか全くわからないままに原稿作成に取り掛かりました。
一冊分の目安として12万文字を目標に。
しかし、「邪馬台国はここだ」のようにテーマを決めて深掘りしようとしても12万文字も書けるはずがありません。
そんなことしてたらいつまでたっても結果にたどりつかない。
そう思った私は、「点」としての様々な事実や事象を時間軸や空間軸でつないで「線」や「面」にして、古代を広く浅くでいいから俯瞰してみようと考えました。
 
原稿を書き始めて半年くらい、目標の12万文字にはまだ少し時間が必要だと感じ始める一方で、自分の考えを早く発信したいという思いが日増しに強くなっていきました。
そして、書き溜めてきた原稿をブログにして発信していくことにしたのです。
それが「古代日本国成立の物語」です。
昨年の夏から始めて、当初は書き溜めた原稿もあったので毎日新しい記事をアップすることを目標に続けてきたのですが、最近は滞りがちになっています。
それでも毎日数十人の方が読んでいただいているようで、本当に嬉しく、励みになっており、これからも発信し続けようと思っています。
一方で書籍化を諦めたわけではなく、セカンドアカデミー代表の佐々木さんのご協力を得ながら着々と準備をすすめているところで、こちらも大変楽しみにしています。
 
最近は仕事そっちのけで古代史に没頭する日々ですが、これからどんなセカンドライフを過ごそうか。
オリジナルの仮説を考えてブログで発信していくこと、それを本にして勉強の成果を形として残すこと、これが柱になるでしょう。
そして講演会や大学の公開講座などで専門家の話を聴くことも積極的にやっていきたい。(セカンドアカデミーさんのホームページは大変ありがたいです)
また、昔からやりたいという思いは強かったものの、その機会を持てなかった遺跡の発掘。
大阪や奈良では遺跡発掘のアルバイト募集がたくさんあるので是非やってみたい。
もしかしたら世紀の大発見に携われるかもしれない。
さらに、実地踏査で全国各地の遺跡や神社を訪ねること、実はこれが一番の楽しみなのです。
 
私には奥さんがいて、もともと二人で車で旅行することが多く、とくに温泉ツアーにはよく出かけます。
時間に余裕のできるセカンドライフでは、車で全国各地の遺跡を訪ね、おいしい料理を食し、温泉に浸かり、二人でゆったりと充実した時間を過ごしたい。
奥さんは古代史に興味があるわけではないのですが、私が行くところはいやな顔せずに付き合ってくれます。
そうそう、奥さんのほかに小さなワンコも一緒です。
次に車を買い替えるときはワンボックスカーにして、そこに布団や着替えを積み込んで、二人と一匹、気の赴くままに遺跡と神社と温泉を目指して日本を一周する。
これが今考えている小さな目標なのです。
古代史に取り組んだからこそ描くことができた小さな目標ですが、古代史をやっていなかったらこれすら描けていないでしょう。
だから、古代史をやって良かったと思っています。
それから、
古代史に取り組むことがわずかでもいいので収入につながれば言うことなし、とも思っているですが、それこそ「夢」にしておいて次の段階で考えることにします。
 
  
以上で終わります。
最後まで読んでいただいた皆さん、ありがとうございました。
最後の最後になりますが、いつかセカンドアカデミーさんによって「古代史構想学」なるジャンルが確立され、素人古代史勉強家が集うコミュニティ講座ができることを楽しみにしています。
  
<完>
 
 
大和 健(やまとたける)
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ブログ:古代日本国成立の物語
http://blog.goo.ne.jp/himiko239ru


男50歳からの古代史構想学(14) 古代史研究とはパズル合わせとストーリー化

古代史構想学の第14回目。
皆さん、こんにちは。古代史勉強家の大和健です。
今回は私が考えている日本建国史における仮説の一部を超ダイジェストで紹介したいと思います。
 

私が古代史を考えるにあたっては、正史である日本書紀をもとに、古事記や魏志倭人伝などの他の文献や考古学の知見を掛け合わせ、自分なりに最も納得性の高いシナリオを仮説としてまとめていく、というプロセスをとっています。
その前提として、古事記や日本書紀の記述はたいそうな装飾や編集、嘘っぽい創作じみた話、神話など明らかに現実的でない話などが並べられているものの、基本的に何らかの事実や史実、あるいは伝承などに基づくものであると考えています。

さて、日本書紀はまず神代巻で国生み、国譲り、天孫降臨など神様の話が語られます。
イザナギとイザナミの夫婦神が日本の国土である大八洲国を作り、続いてたくさんの神々を誕生させました。
そのたくさんの神々の中で最も重要な神様はアマテラスとスサノオの二人です。
アマテラスは天上の高天原にいて、その孫にあたるニニギノミコトを地上に降臨させ、その子孫たちが天孫族として日本国の建設を始め、のちの天皇家につながっていきます。
一方のスサノオは気性が荒くて天下を治めるにふさわしくないとされ、天上界から根の国に追放され、天孫族と対立する一族になっていきます。
いずれも天上界からやってきたという点では同じです。
 
縄文時代の終わり頃から弥生時代にかけて、大陸や朝鮮半島から稲作や製鉄など当時の最先端技術を携えて日本列島各地に渡来した様々な集団が土着の縄文人と融合して弥生人になっていった、ということが様々な研究の結果、わかってきました。

中国大陸の江南地方あたりから九州の南部に渡来した集団がアマテラス一族、記紀においては熊襲あるいは隼人と呼ばれる一族になり、魏志倭人伝では狗奴国と記されました。
この狗奴国の王(倭人伝では卑弥弓呼)がカムヤマトイワレヒコ、のちの神武天皇です。
 
そして朝鮮半島から山陰地方へ渡来した集団がスサノオ一族で、子孫のオオクニヌシが出雲の国土開発(国造り)を行う一方、一族から分かれたスクナヒコナの集団が大和の纒向へ移り、邪馬台国を建国します。
この邪馬台国を建国したのが崇神天皇です。 (そうです、私は邪馬台国畿内説です。)
 
大和纒向の邪馬台国はやがてオオクニヌシの出雲(倭人伝では投馬国)や九州北部の各国を従えて倭国という連合国家を形成します。
一方の狗奴国は南九州から北上しながら国土開発を続け、ついには北九州の倭国と一戦を交える事態になりました。
この戦いを優勢に進めた狗奴国の王イワレヒコは倭国の本丸である邪馬台国への進攻を決意し、九州の日向から瀬戸内海を通過、熊野を経由して大和へ向かいました。
これがいわゆる神武東征です。
 
しかし、日本書紀には神武天皇が大和にあった邪馬台国、すなわち崇神天皇と戦った、なんてことは一言も書いていません。
同じ天皇家であり、しかも神武は初代天皇で崇人天皇は第10代天皇。この二人が戦うなんて考えられません。
そもそも神武が大和で戦ったのはニギハヤヒだったはず。
 
大和をめぐる動きについては、私はこんなことを考えています。
弥生時代の早い時期に丹後からやってきたニギハヤヒが大和の地を押さえていた。
弥生後期後半、出雲からスクナヒコナがやってきて奈良盆地の東の端っこに邪馬台国を開き、のちに崇神天皇と呼ばれるようになった。
さらに九州の日向から狗奴国の神武がやってきて、ニギハヤヒを取り込んで奈良盆地の南西部の隅っこに拠点を設けた。
3世紀中頃にあたるこの時点で大和には邪馬台国である崇神天皇の政権と神武天皇の政権が並立する状況になった。
こうして二人のハツクニシラススメラノミコト(初めて国を治めた天皇)が誕生することになった。
 
この考えをもとに日本書紀をつぶさに読むと、神武王朝(神武から第9代開化天皇まで)と崇神王朝(崇神から第14代仲哀天皇まで)の間での様々な「せめぎ合い」が見えてくるのです。
 
 
記紀の神代から続く歴史の初期段階はそれを裏づける証拠がないために、いろんな人がいろんなことを言っています。
邪馬台国も同じです。
中国の正史である魏書に明確に書いてあるにもかかわらず、その所在について確たる物的証拠がないために何とでも言えてしまうのです。
でも、だからこそ古代史は面白い。
できるだけたくさんの状況証拠を集めてパズルあわせをしていくと思わぬ考えに行き着き、それを上手く組み立てると意外にも筋の通ったストーリーになる。
言い方は適切でないかもわかりませんが、このパズルあわせとストーリーの組み立てがこの上なく楽しい。
ほかの人が考えついていないストーリーができたときほど満足感が大きい。
そのときはたいがい前述のようなトンデモ説になってるんですが(笑)。
 
そんな考えで綴ってきたのが私のブログ「古代日本国成立の物語」です。
詳しくはこちらをご覧いただければと思います。
昨年の夏から始めて今日現在までで、第11代垂仁天皇までのストーリーを書いてきました。
 
 
さて、これまで14回にわたって私なりの古代史の楽しみ方をお伝えしてきましたが、次回をもっていったん最終回にしたいと思います。
最終回は、古代史の勉強を単なる自分の趣味に終わらせず、セカンドライフを充実させるために何かできないか、もやもやと妄想していることを書いて終わりにしようと思います。
 
 
 
大和 健(やまとたける)
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ブログ:古代日本国成立の物語
http://blog.goo.ne.jp/himiko239ru


清田(きよた)日記 男50歳からの資格取得 第15回 行政書士事務所の開業費用  ~その2~

前回に引き続いて、開業費用を検討していきます。
基本個人事務所である行政書士事務所でも、顧客獲得のためのホームページやブログは必要です。ここで、IT関連スキルが大きく影響してきます。
自分でホームページやブログを作成できる人と、そうでない人の差は大きいものがあります。
ちなみに、ネット情報ではありますが、WEB制作会社にホームページを依頼した場合、初期費用で30万円程度。サイト維持費に月額3万円程度。そしてSEO対策に10万円程度が必要になります。
ちなみに、下記費用は自分でホームページやブログを立ち上げた時の費用です。制作会社との比較でみていただければ、本当にリーズナブルなことがおわかり戴けると思います。
何事も持っている人と持っていない人の差は大きいです。


9.ホームページ・ブログの作成(新規PC購入の場合)  小計16万円程度
  
   ホームページ作成ソフト    約2万5千円
ブログ用テンプレート       約2万5千円
新規PC              10万円程度
  レンタルサーバー        初期費用3,000円(月額1,000円)
  ドメイン使用料          1ドメインにつき年額1,500円


*自分でどうしても作成できない人は、知り合いを頼ってお願いしてみることも有効であると思います。


10.予備費(模範六法、判例六法、実務書、講座受講等)  小計20万円程度
開業費として必要な項目をみてきましたが、事務所用に必要になる備品類はまだ発生する可能性があります。また、実際に業務を受託した際に、業務内容を更に深堀して実務書で勉強することも必要であると思います。
そうした諸々の費用を予備費として計上しておきたいと思います。


■1~10   開業費総合計  115万円

いかがでしょうか。
起業の初期投資としては、かなり小さい額だと思います。
とはいえ、これが生きた投資になるかどうかは、起業する我々の努力次第だと思います。
何としても成功したいといった熱き思いなくしては、上手くいかないと思っていますが、全て自己責任で頑張っていきます。


皆様。
長い間、清田日記を読んでいただき、本当にありがとうございました。
今日現在、私は田舎に帰っておらず横浜に暮らしております。
次回は、私が事務所を立ち上げて、奮闘努力している内容で皆様にお会いしたいと思います。
ということで、少しだけ清田日記をお休みさせて戴きます。
読者の皆様のご健康とご多幸を祈念いたします。
再会を楽しみにしております。
ありがとうございました。


2017年 夏


清田 一人(きよた かずと)
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男50歳からの古代史構想学(13) 神武も徐福も熊野へ来た?

古代史構想学の第13回目。
皆さん、こんにちは。大和健です。

今回は神武東征と徐福伝説を訪ねる実地踏査ツアーの最終回。
熊野三山をあとにして向かった先が、産田(うぶた)神社、花の窟(はなのいわ)神社、波田須の徐福の宮、阿古師(あこし)神社です。
 
まず産田神社。
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この神社には主祭神として伊奘冉尊(いざなみのみこと)と火の神である軻遇突智(かぐつち)が祀られています。
日本書紀には「伊奘冉尊は火の神である軻遇突智を産んだ際に焼かれて死に、紀伊国の熊野の有馬村に葬られた」と記されていて、この産田神社は伊奘冉尊が出産して亡くなった場所といわれています。
社殿の両側には日本でわずか二ヶ所しか残っていないと言われている古代の神籬(ひもろぎ)の跡がありました。
神籬というのは神社という形ができる前に神様を祀る神聖な場所として設けられた区画のことです。
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これを見ると石を並べて磐座(いわくら)を作ったという印象で、神様が降りてくる場所として相応しいように感じました。

次は、産田神社から車で5分ほどのところにある花の窟神社。
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ここは亡くなった伊奘冉尊を葬った場所とされ、産田神社と同じく、伊奘冉尊と軻遇突智が主祭神として祀られています。
社殿がなく、熊野灘に面した高さ459メートルの大きな岩がご神体となっており、先に見た神倉神社と同様にここでも磐座信仰が見られます。
日本書紀には「この土地の人々は神の魂を、花が咲くときに花を捧げて祀り、太鼓を鳴らし、笛を拭き、旗を振って歌い、踊ります」と記されいて、今でも御縄掛け神事というお祭りが行なわれています。
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この2つの神社はまさに神話のテーマパークという印象があるのですが、神武東征が史実であったからこそ熊野の地が地元の伝承とともに日本書紀に記され、そしてその後は日本書紀の記述をもとにテーマパーク化していった、と考えられます。
 
次は波田須という小さな村にある徐福の宮を訪ねました。
国道をはずれて細い道に入り、不安な気持ちで村の中を進んでいくとやがて行き止まりになり、車を停めた目の前がまさに目的地でした。
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徐福伝説は日本各地にあって、今回訪れた新宮や熊野はその中でも本場であるといっても過言ではないのですが、ここ波田須の徐福の宮に立つと、本当に徐福がここに来たと思わせる空気がありました。
この地にやって来たのが徐福本人であったかどうかは定かではありませんが、その昔、この小さな村に流れ着き、言葉が通じない中でも村の人々に様々な技術を伝え、村の発展に貢献した人がいた、としても不思議ではないと思いました。
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徐福というのは、秦の始皇帝の命令で3000人の童男童女と多くの技術者を従えて不老不死の妙薬を捜し求めて大陸から東へ船出した集団のリーダーです。
おそらく秦の時代には3000人もの大人数が乗れるような大きな船はなかったでしょう。
100人ずつ分けても30隻、50人とすれば60隻、いずれにしても大船団になります。
大陸から漕ぎ出した大船団が東シナ海を渡るとき、一隻もはぐれずにまとまって航行できたとは到底思えません。
むしろ、風や波の影響、それぞれの船の大きさや構造、荷物の重量の差などもあって、出航後まもなくして船団はバラバラになったことでしょう。
バラバラになった船はそれぞれ自力で目的地を目指して航海を続け、結果、日本列島の各地に流れ着くことになったはずです。
私はこれが徐福伝説が各地に残る理由だと考えています。
 
さて、子供の頃によく聞いた浦島太郎のお話、これまた日本各地に伝えられています。
海の向こうからやってきた見知らぬ男、浦島太郎のモデルは徐福だったのかも知れません。

さあ、いよいよ最後の訪問地である阿古師神社。
もともとはこの神社の先にある神武船団が遭難したと言われる楯ケ崎へ行きたかったのですが、時間と体力の関係で手前の阿古師神社で断念しました。
国道わきの駐車場から海岸へ降りる遊歩道があるのですが、帰りが大変だと不安になるほどの結構な下り道を2~30分ほど行ったところで到着。
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三重県神社庁によると阿古師神社の祭神は三毛入野命、天照皇大神、大山祗命、蛭子命、倉稲魂命となっているのですが、日本書紀によると神武の船団はこの海域で暴風雨に見舞われ、神武天皇の二番目の兄の稲飯命(いないのみこと)と三番目の兄である三毛入野命(みけいいりののみこと)が入水して嵐を収めようとしました。
二人の兄が犠牲になったにもかかわらず、神武の船団は結局ここで難破してしまい、上陸を余儀なくされたのです。
二木島湾を挟んだ向こう側には室古神社というのがあって、そこには稲飯命が祀られています。
地元の人々が命を落とした二人の亡骸を引き上げて2つの神社に祀ったということです。
難破して上陸せざるをえなかった楯ケ崎はこの阿古師神社からさらに30分ほど行く必要があったので断念したのです。
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以上で熊野ツアーは終了になるのですが、神武天皇が本当に紀伊半島をぐるりと回って熊野へやってきたのか、中国からの徐福は本当に熊野へやってきたのか、を感じて考えることができました。
前者の結論は、神武天皇は熊野へやってきた、後者は、徐福本人かどうかはわからないが大陸からやってきた集団がいた、ということになりました。
ただ、この結論は思考の終点ではなくて、あくまで始まりなのです。
古代史を解き明かす無数のパーツのいくつかが見つかったにすぎないのです。
 
ここまで、日向、纏向、葛城、熊野と実地踏査のレポートを掲載してきましたが、このほかにも丹後・出雲の遺跡や神社、魏志倭人伝に登場する伊都国や奴国と言われる北九州の遺跡など、少しづつ訪問地が増えてきたので、機会があればこの場で紹介していきたいと思うのですが、ひとまず実地踏査レポートはこのあたりにして、次回は私が古代の日本に対してどんな仮説を考えているかを簡単に紹介させていただこうと思います。
 
 
 

大和 健(やまとたける)
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ブログ:古代日本国成立の物語
http://blog.goo.ne.jp/himiko239ru


清田(きよた)日記 男50歳からの資格取得 第14回 行政書士事務所の開業費用  ~その1~

前回の日記で、他ビジネスに比較して資格ビジネスは、初期投資が少ないビジネスであると記しました。
それでは、行政書士事務所を開業するためにどの程度の費用が必要になるかをみていきたいと思います。この費用試算は、皆様のためというよりも私のこれからの人生のためにも非常に大切な内容で、自分のためにもしっかりと試算したいと思います。
なお、調べると自宅で開業されている方も多く、賃貸で事務所を用意される方ばかりではなかったため、事務所費用は試算内容から外します。
ただ、自宅マンションで開業を検討されている場合、マンションの管理規約に抵触して管理組合ともめている事例が存在したことは付け加えておきたいと思います。事務所設立を認めないとの管理規約になっているマンションは多数存在しますので、細心の注意が必要です。


1. 行政書士会への登録料   小計28万円程度
行政書士になるためには、事務所を開設する場所の各都道府県行政書士会に登録する必要があります。調べてみますと、都道府県によって若干金額が違っているようですが、一般的な金額を記します。
     登録手数料   2万5千円程度
     会費       2万円程度(3ヶ月分)
     登録免許税   3万円
    入会金      20万円程度


2. 名刺、開業挨拶状ハガキ  小計3~4万円程度

行政書士会登録が完了する前から多くの行政書士の方々は、事前の営業活動をされています。開業前の名刺と開業後の名刺、どちらも必要です。
そして、特に積極的に営業したい業務を特定特化した名刺もお持ちです。
また、退社した会社のお世話になった関係者や親しい友人等への開業挨拶のハガキも必要です。


3.電話等の通信機器準備     小計12~13万円程度

個人で事務所を運営する場合に大切なことがいくつかあります。
その一つが、事務所の電話番号とFAX番号は別々に持つ必要があります。お客様も事務所電話番号とFAX番号を共用しますと、この事務所は大丈夫なのかと心配になります。
また外出中に事務所電話を携帯に転送できることや、FAX内容を携帯で読むことができることです。そして、外出中に携帯電話を切っていた際に、事務所電話に着信があったことが確認できることも必要です。こうした内容も今はパッケージ化したサービスプランがあります。
FAXも、A3までスキャンできてプリントできる複合機が望ましく、事務所の電話機も子機は絶対必要ですし、必要な時には10分程度前の会話に戻って録音できる機能がついている電話機が良いと思います。
個人的には、携帯電話も事務所用の番号と個人的な番号の2つの電話番号を持とうと思っています。
     携帯電話       5万円程度
     事務所電話機    1万円程度
     電話工事費      1~2万円程度
     FAX複合機      4~5万円程度


4.事務所什器(机、椅子、応接セット、保管庫等)  小計20万円程度

机と椅子は、作業効率やお客様の目を意識して、それなりの物を求めたいと思います。
特に机の天板部分が狭いものは良くないと思います。作業効率を考えても天板の左右寸法が、最低1,400ミリ以上のものを選びたいと思います。PCや資料を置くスペースも考えると1,800ミリ程度あってもよいと考えています。
また椅子は、長時間の資料作成を考えるとそれなりの品質のものが必要です。
また保管庫は、お客様の資料を預かることも多い業務ですので、鍵付きの保管庫が必ず1つは必要で、本棚としての保管庫も別途必要になります。
応接セットは、価格の幅が広い商品ですが、お客様との打ち合わせに支障のないものを選びたいと思います。900ミリ×1,800ミリの会議用テーブルで代用することも、検討に値すると思います。
正直なところ事務所の什器は、費用をかけようと思えばいくらでもかけることができる部分で、コストカットの強い意思を持って予算以内の選定をすることが重要であると思います。
ちなみに私は、オフィス通販で組み立て家具を購入しようと思っています。

  机                    1台
  事務用椅子                1脚
  保管庫(書籍用)             1台
  保管庫(鍵付)              1台
  複合機設置台               1台
  応接セット(来客打ち合わせ4人用)   1セット


5.行政書士事務所表札     小計1万円程度

行政書士事務所を開業したら、事務所の表札を掲示しなくてはなりません。
これは法的義務です。そして、こうした表札製作を専門にしている看板会社があります。
ちなみに、ネットで調べれば、すぐに見つかります。


6.行政書士用書式集      小計6万円程度

行政書士の業務は幅が広く、とても自分で各種業務の書式を作成することは出来ません。
全ての業務に精通して書式をつくることは、不可能といってもよいと思います。
今は、そうした書式もネット上で購入することが可能です。


7.職印・ゴム印等       小計2万円程度

行政書士事務所を開設した際には、職印、ゴム印、銀行印が必要となります。
実印をもっていない方は、別途実印も必要です。印鑑ケースや朱肉、捺印マット等の消耗品もあわせて準備します。


8.事務所用封筒・備品     小計5万円程度

開設時の事務所用封筒としては、A4版が挿入できる角2封筒とA4版が4ツ折で挿入できる長40封筒の2種類があればよいと思います。また、各種許認可申請用紙や封筒、切手等を整理できる10段以上のレターケースや最低限の一般事務用消耗品が必要です。


ここまでで、MAX80万円程度。
これ以外にITリテラシーが大きく影響するホームページやブログの作成があります。PC関連の環境構築も含めて、私の苦手なIT関連費用の試算です。予備費も検討して、次回の清田日記では開業費用合計金額を算出したいと思います。


(つづく)


清田 一人(きよた かずと)
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男50歳からの古代史構想学(12) 神武は那智山に来なかった

古代史構想学の第12回目。
皆さん、こんにちは。大和健です。
神武東征と徐福伝説を訪ねる実地踏査ツアーの3回目になります。

勝浦温泉で旅の疲れを癒した3人の2日目は補陀落山寺からスタート。
ここは古代史に関係ないのだけど、極楽浄土を目指して小船で漕ぎ出すという思想に興味があったので立ち寄りました。
しかし残念ながら、ここから旅立った人々の名が刻まれた碑を見ても、保存されている実物の渡海船を見ても、本尊の観音さまを拝んでも、その思想は理解も共感もできませんでした。


次はいよいよツアーのメインイベント、熊野那智大社の参詣です。
熊野まで来て熊野古道を歩かない訳にはいかないという佐々木さんの強い意向で、大門坂の駐車場に車を停め、歩いて登ることにしました。
何度も熊野へ来たことのある私にとっても初体験で、いい思い出になりました。

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(大門坂)

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(熊野古道)

熊野那智大社は神仏習合が現在もそのまま残されているが如く、境内には西国三十三箇所一番札所の青岸渡寺が隣接して建っています。
以前に来た時はお寺で二礼二拍一礼という失態をやらかしてしまったので今回は気をつけました。
(由緒ある神社とお寺が並んでいて、しかも先に神社をお参りしたら間違っても仕方ないと思いませんか(笑))
那智大社の主祭神は速玉大社にも祀られていた熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ=イザナミノミコト)です。

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(熊野那智大社)

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(青岸渡寺)

この那智大社は他の二山と違って、どうも神武東征や古代史とは関係がなさそうです。
那智の滝に対する自然崇拝と修験道の拠点としての山岳信仰が融合し、その後に熊野信仰の対象になったという印象です。
そういう意味でここは記紀神話をもとにしたテーマパークとも言えます。
青岸渡寺には修験道の開祖とされる役行者(えんのぎょうじゃ)の像が安置されていました。

ここからは再び徒歩で那智の滝に向かいます。
那智の大滝をご神体とする飛瀧神社は主祭神として大己貴神を祀っていて、ここも記紀神話テーマパークの一部になっているようです。
ちょうど先日9日の日曜日、7月14日に行われる扇祭りのために大滝にかかるしめ縄の張り替えが行われ、ニュースで放映されていました。

さすが日本一の落差
日光の華厳の滝なんかとは比べものにならない迫力と威厳を感じます。
別料金を払ってより滝に近づける拝所に上って滝の飛沫を浴びていると心が洗われる気がしました。

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(拝所から)

私たちが神社にお参りするとき、お賽銭箱が置かれた拝殿の前で拝みます。
そして通常はその拝殿の奥にはご神体が納められている本殿があります。
でも、この飛瀧神社の場合、滝そのものがご神体なので本殿がありません。
しかも、ここには拝殿もありませんでした。
滝の正面に小さな鳥居⛩があって、その前にお賽銭箱が置かれているだけでした。
その意味で、自然崇拝の原始信仰がそのまま残されているように感じました。


ところで、私は「ご神体」というのは神様のことだと思っていたのですが、神社のことを少し勉強してそれが間違いだとわかりました。
ご神体というのは神様が天から降りてきたときに宿る依り代なんですね。
そんなにわか仕込みのマメ知識を2人に披露しながら那智山を後にしました。

JR那智勝浦駅の近くで美味しいマグロ丼を食べた後はいよいよツアーのフィナーレへ。


大和 健(やまとたける)
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ブログ:古代日本国成立の物語
http://blog.goo.ne.jp/himiko239ru


清田(きよた)日記 男50歳からの資格取得 第13回 ~これからの人生について考える~

資格取得の話から外れるかも知れませんが、自分のこれからの人生について少し記してみたいと思います。
私は、今年(2017年)の11月で還暦をむかえ会社定年となります。
しかしながら、私の勤める会社では、本人にやる気があって健康であれば65歳まで勤めることができます。これは、「高年齢者等の雇用の安定等に関する法律」が改正されましたので、同じような状況の会社も多いと思いますし、中には法律改正時に定年制度自体を廃止された会社もあると思います。
当社の場合は、シニア社員として原則それまでの待遇とは違った形で勤務することになるのですが、それまでの役割や責任も大きく変わることが一般的です。私の先輩諸氏も既にシニア社員になって働いておられる方も多いのですが、その姿には考えさせられるものがあります。
もちろん元気で働いておられる方も多いのですが、中には極端にそれまでの元気を失っている方もおられます。理由は、それまで保有していた立場や役割がシニア社員になることによって大きく変わり、その権限が縮小することからくる喪失感が原因です。
正直、この姿に私は考えさせられました。
第1回日記のプロフィールにも書きましたが、もちろん田舎に帰らないといけない気持ちはありました。でもその気持ちを強固にしたのは、シニアで働かれている先輩諸氏の姿だったことも事実です。


皆さんは、何歳まで元気に働けると思いますか。
私は、田舎に帰らないといけないと数年前に思ってから、先輩諸氏や周りの方々を結構真剣に見てきたのですが、「75歳」と定義しています。
国が75歳以上を後期高齢者などと呼ぶこの年齢は、非常に大きな意味を持つように感じています。というのも、何故か私の周りの方々は、その年齢前後で体調が不調になる方が多いのです。それまで健康だった人が、不調を訴えるようになる年齢であると感じています。
そう思うと、60歳からの1年1年は、若い時には想像もできないような貴重な1年であると思うにいたりました。
また現行の法律や一般的な会社制度から考えた場合、65歳になった時には否が応でも、それからの生き方を考えなくてはいけません。私の想定でも65歳から75歳までの10年間は、元気で働ける時間があります。そうしたことを考えると早めに60歳以降の人生の検討をしておいた方がよいと思います。
何が正解か分からないのですが、いろいろ60歳以降の人生を考えていた時にたどり着いた結論は、「自分が納得して決める。そしてできれば、75歳まで働けるようにする。」でした。
そうなのです。私は、自分が元気であると想定できる年齢までは、何らかの形で社会とつながっていたいと考えました。そして、毎日何もすることが無い状態を想像すると不安になりました。
田舎の求職事情を考慮に入れて資格取得を考えたことは既に書いてきた通りですが、75歳まで元気で働きたいとの思いもその結論を導く一つの要因であったことを付記しておきたいと思います。
とはいえ、必ずしも行政書士事務所が成功するとはかぎりません。
目一杯努力したいと思いますが、そうそう上手くお客様からの依頼を獲得できるとも思っていません。


行政書士事務所の設立は、第12回日記にも書いた、私が会社人生で経験してきた新規事業に近いものだと思っています。そう考えると、事業を開始する前にどうしても決めておくべきことがあるといえます。今から書くことは、新規事業を立ち上げる前に決めておくべき重要なことで、この決め事無しに事を進めると、必ずとは言いませんが、後々大変なことになる時もあります。
それは、「引き際、デッドライン」を開始前に決めておくということです。
私の場合、開業資金として考える金額を使い果たした時には、残念ながら「THE END」にしようと思っています。
そうでないと、一つの夢にこだわりすぎて人生が壊れてしまうと思うのです。
ビジネスにはノウハウがあります。しかしながら、「同じことをしているのに、Aさんは成功して、Bさんは失敗した。」といった事例を会社人生の中で数多く見てきました。
成功者がいれば、同数以上の敗者も存在するのが現実です。
悔しく残念なことですが、どうにもならない時は、再起可能なうちに次を考えたいと思います。
自分で言うのもおかしいのですが、ここまで決めておいた方が気持ち的に楽にチャレンジできるのです。


開業資金の話がでましたが、資格ビジネスのメリットの一つとして、初期投資が他ビジネスに比較して、非常に小さくてすむということがあげられます。
行政書士事務所開設にともなう具体的な初期投資については、参考情報として次回日記で。


(つづく)


清田 一人(きよた かずと)
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男50歳からの古代史構想学(11) 原始信仰と記紀神話の融合

古代史構想学の第11回目。 こんにちは、古代史勉強家の大和健です。
 
前回の熊野本宮大社から今回は熊野速玉大社、神倉神社、阿須賀神社を紹介します。
 
熊野速玉大社は新宮川の河口近くにあって、祭神は熊野速玉大神と熊野夫須美大神となっており、これまた聞いたことのない神様ですが、伊邪那岐神と伊邪那美神のことだそうです。
 
神社公式サイトを見ると「熊野の神々はまず初めに神倉山のゴトビキ岩に降臨され、その後、景行天皇58年、現在の社地に真新しい宮を造営してお遷りになり「新宮」と称した」となっており、このことが新宮市の名の由来にもなっています。
社殿はすべて朱塗りになっているので本宮大社のような趣や歴史を感じることができませんでした。
 
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 (熊野速玉大社本殿)
 
この速玉大社を出て少し南に歩いていくと前述の神倉山があり、その中腹に神倉神社があります。
油断すると転げ落ちそうな急な石段を五百数十段も登ったところに御神体のゴトビキ岩があり、その前に小さな祠が立っています。
この石段は本当に危険で、神社の公式サイトにも「急勾配なので、御年配の方は下の鳥居でご参拝下さい。また、飲酒者や踵の高い靴での登拝は、危険防止上、お止め下さい。」と書かれています。
実際に行ってみると、上りよりも下りのほうが怖くて、情けないかな、へっぴり腰にならざるを得ませんでした。
 
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 (へっぴり腰の佐々木さんと清田さん)
 
このゴトビキ岩は神武天皇が東征の際に登った天磐盾(あまのいわたて)と言われており、日本書紀には「遂越狹野而到熊野神邑、且登天磐盾、仍引軍漸進」と記されています。
 
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 (ご神体のゴトビキ岩)
 
2月には御燈祭というのがあって、松明を持った男衆がゴトビキ岩から麓まで急峻な石段を一気に駆け下りるというのです。
この石段を経験してみると「駆け下りるなんてとんでもない。死人が出てもおかしくない」と思うのですが、地元出身の友人に聞くと「大丈夫ですよ」とサラリと言われました。

 御燈祭の情報→http://travel.nankikumano.jp/omatsuri/otoumatsuri/
 

神倉神社の次に向かったのが新宮川のさらに河口寄りにある阿須賀神社
主祭神は、事解男命(コトサカノオノミコト)、熊野速玉大神、熊野夫須美大神、家津美御子大神。
事解男命以外はすでに見てきた速玉大社と本宮大社の神様だけど、事解男命はまた初耳の神様です。
でも、調べてみると次のような話で日本書紀に登場していることがわかりました。
 
イザナギは亡くなった妻のイザナミに会いたいと思って黄泉の国に行ったとき、その穢れた体を見て引き返そうとした。
イザナミは黙って帰らせず 「別れましょう」と言うと、 イザナギは 「負けない!」と言い返した。
その時に吐いた唾が神となったのが速玉之男(ハヤタマノオ)、次に穢れを払うと泉津事解之男(ヨモツコトサカノオ)が生まれた。

速玉之男は熊野速玉大社の祭神である熊野速玉大神と言われています。
そして泉津事解之男がこの阿須賀神社に祀られる事解男命のことです。
 
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 (阿須賀神社)
 
神社の背後には神奈備山の典型と言ってもいいお椀を伏せたような形の蓬莱山があり、境内からは弥生時代の遺跡が出ています。
ここでも記紀以前の原始信仰があったことがわかります。
 
また、神社境内には徐福の宮と呼ばれる小さな祠があり、徐福が探し求めた不老不死の妙薬と言われている天台烏薬(てんだいうやく)の木が育っていました。
ここ新宮は徐福伝説にあふれる街で、JR新宮駅前は「徐福」という地名で、そこには徐福公園があり、その中には徐福の墓までありました。
 
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 (徐福公園。まさにテーマパークだ)
 
 
熊野の神社を訪ねて感じたことは、それぞれの祭神が記紀に登場する神々に少々強引にこじつけられているな、ということです。
熊野のそれぞれの神社にはもともと地元の神様が祀られていたと思うのです。
神倉神社なんかはその典型で、原始的な磐座信仰に始まっているのは明らかです。
 
そして3世紀中頃(と私は考えている)に神武東征があって、4世紀から5世紀にかけて大和政権が確立され、8世紀初めにその経緯が古事記、日本書紀に記されました。
つまり、古事記や日本書紀は時の政権が編纂した歴史書であり、ここに登場する神様は政府公認の神様と言えるのです。

しかし、出雲や大和の葛城と違って熊野が記紀に登場するのは神武東征の一場面のみで、神様として祀るべき人物もほとんどいません。
それでも記紀ゆかりの土地として、有難い記紀の神様にあやかろうとスサノオノミコトやイザナギ・イザナミなどを無理やり持ってきたのではないでしょうか。
 
ちなみに、熊野詣が盛んになるのは記紀編纂からずっとあと、10世紀以降のことと考えられています。
記紀が編纂された頃の熊野は住む人もほとんどなく、大和から見ると遥か彼方の僻地でした。
だからこそ私は、神武天皇が大和に入るためにわざわざ遠回りしてこの熊野にやって来たのは史実であったと考えるのです。
 
日の皇子である神武天皇は太陽を背にして戦おうと紀伊半島を迂回し、東から大和に入ろうとしました。
紀伊半島を迂回して大和の東から、となれば伊勢あたりに上陸することを目指したはずです。
ところが、熊野で嵐にあって遭難し、上陸を余儀なくされたのです。
神話として創作するのであれば無事に伊勢まで行かせればよくて、わざわざ熊野で遭難させる理由がないと思うのです。
だから私は、神武天皇が紀伊半島を迂回して熊野までやってきたこと、ここで遭難して上陸したことを史実と考えるのです。
 
 
次回は、熊野古道を歩いて熊野那智大社を参った様子を紹介します。
 
 

大和 健(やまとたける)
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ブログ:古代日本国成立の物語
http://blog.goo.ne.jp/himiko239ru


人間には言葉を越える力がある@自由学園明日館

 アメリカの有名の建築家のフランク・ロイド・ライトが設計した、自由学園明日館で、「人間には言葉を越える力がある」セミナーを開催しました。


 講師の尾中氏は、自身は健聴者ながら、耳の聞こえないご両親に育てられました。耳の聞こえない両親との身振り・手振りでの会話の中で自然と体得した、無音でのコミュニケーション。


 受講生の方々もチームで、無音コミュニケーションを体験する中で、言葉と同じように、相手の目を見ることや、ボディランゲージの重要性を体感しました。


素敵な場所、感性豊かな講師、感度の高い受講生。


主催者も楽しみました。


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