師走、極月
年末・年の瀬という月を迎えると、何となく世の中の動きが何時もと異なる。「師匠までも走り出す月」とは、その世相をうまく表している。
18世紀初めの江戸庶民も同じような気分であった。当時のロンドンが人口60万、パリが56万人の大都市であったが、元禄時代の経済の急激な発展によって、江戸の街は人口100万に及び、その7割近くが消費都市に働く庶民であった。大名・武士を始めこれらの庶民が師走の月の中旬には、正月用品や必需品を一斉に買出しを始める。
江戸の「歳の市」は、こうした庶民の求めに応じて成り立っている
「歳の市線香買いに出でばやな」 芭蕉 :(『続虚栗』)
江戸の庶民も注連縄などの縁起物や正月用品を歳の市で求めたが、「江戸っ子」は正月の縁起物は「値切らず気持ちよく」求めるのが風習であった。市のは夫々の寺社で日を変えても行われた。
14,15日 深川観音 17,18日 浅草観音
20,21日 神田明神 22,23日 芝明神
24日 芝愛宕神社 25,26日 平河八幡宮
この歳の市に極めて日本的な「羽子板」の店が浅草寺雷門から本堂にかけ並び賑わった。元来、羽子板の「羽根」の「つくばね」(衝羽根)は、ビャクダン科(ハゴノキ)の果実の4枚の包に似ているために、このように呼ばれた。当時の江戸庶民の羽子板は、何と云っても菊五郎・梅幸・羽左衛門など歌舞伎の人気役者の似顔絵が売れ筋で、また縁起物の宝船などであった。年越しには新吉原では狐の面をつけて舞う狐舞が行われたようだが、江戸の庶民らしい年越しの風習に、街の四つ辻で「フンドシ(褌)」を落して家に帰ると厄災から逃れると信じられた。下着の変った現代では、その意味も不可解ではないであろうか。
小澤富夫(学習院生涯学習センター講師・元玉川学園女子短期大学教授)
(2006年12月03日)