仲秋の名月
旧暦八月十五日の秋分の日は十五夜の望月で、江戸庶民も月見の行事を楽しんだ。「仲秋」とは、秋季の7月を初秋、8月を仲秋、9月は晩秋と呼ばれた。この夜は武家も町人も里芋・枝豆や団子、月見に無くてはならぬ「すすき」を買い求めて供えた。当時の庶民の習俗には、供えた「すすき」を陰干しにして、節分の夜に燃やすと、その年の夏には蚊がでないと云われていた。
名月を眺める舟での月見や、吉原ではこの夜、馴染みの客に月見盃を配る習慣があった。また、江戸庶民の俗信仰には、十五夜(芋名月)と十三夜(旧暦九月十三日の夜、豆名月、後の月宴と呼ぶ)のいずれかを欠いだ場合は、「片見月」といわれ忌むべきこととして、この月見の時期には旅さえ見合せたようである。こうした月見の宴は、歴史的には延喜19年(919)醍醐天皇の時代に始まっている。
秋分を中心とする一週間が「秋のお彼岸」で、春と同じく江戸時代には墓参、法要などの供養が行なわれている。こうした行事は、おそらく彼岸の中日に太陽が真西に沈むため、この日の夕日を拝礼すれば西の極楽浄土へ往生できるという古くからの信仰によるとも考えられる。
立秋からおよそ1ケ月後頃に咲く萩の花は、江戸庶民にも好まれ、大勢の人々が「萩見物」を楽しんだ。江戸の萩の名所は、萩寺と]して著名な竜眼寺(亀戸)であるが、同じ亀戸の天神は正保3年(1646)太宰府天満宮別当大鳥居信祐が創建、寛文3年(1663)に現在の地に神殿などが造営された。その後、文化14年(1817)太鼓橋が完成したが、その祝賀に駆付けた辰巳芸者(深川芸者)が、橋の形に似せた帯を結んだのが「お太鼓結び」の端緒である。また、百花園(隅田区)、三囲(みめぐり)神社や下谷の正燈寺なども見物客で賑わった。
小澤富夫(学習院生涯学習センター講師・元玉川学園女子短期大学教授)
(2006年09月11日)