隅田川の花火「玉屋ーツ! 鍵屋ーツ!」
花火が庶民に普及したのは17世紀中頃である。当時の江戸の街は木造建築の長屋も多く、瓦屋根でなかったため幾度も大火に見舞わている。風の強い日は銭湯も休業とされたように、慶安元年(1648)「花火禁止令」が公布されたが、大川の河口付近はその例外とされた。隅田川の打ち上げ花火の出現には、ある主要な人物が主要な役割を演じる。万治2年(1659)大和国篠原村の弥兵衛は、江戸に上り火薬を練って葦の管に詰めた星が飛び散る初歩的な「火の花」「花の火」(流星花火)を考案して売り出したが、これが江戸庶民の評判となり多大な富を得た。この資本を元手に両国横山町の「鍵屋」という花火商を設立したのである。
寛文9年(1669)夏には4代将軍家綱は、二度も花火鑑賞をしていることが『玉露叢』に記載されている。「両国川開き」「隅田川花火打ち上げ」が始まったのは、享保18年(1733)5月28日川開き初日であった。これは前年に江戸で流行した流行病「コロリ」(コレラ)と飢饉による多数の死者の慰霊と悪疫退散を祈願するため、水神祭を開催して川施餓鬼を行なうために、川沿いの水茶屋や料亭が援助して祭りを開催し、合わせて川開きに大花火を打ち上げたのであった。この盛大な行事には、6代目鍵屋弥兵衛の活躍があって実現できたのである。
文化7年(1810)鍵屋の手代清吉(市兵衛と改名)は、その暖簾分けによって両国吉川町に「玉屋」を設立、これによって、隅田川の花火大会は両国橋を境に、上流が玉屋、下流が鍵屋が分担して花火の競演をした。「玉屋ー!、鍵屋ー!」江戸庶民は、真夏の夜空に打ち上げられる花火の競演に酔いしれたのである。ところが、天保14年(1843)4月17日夜、川開きを間近に控えた花火商玉屋から失火、家屋全焼・蔵の花火に引火爆発、町内に類焼という不祥事が起こった。折しも12代将軍家慶は日光社(東照宮)参詣中であった。幕府はこの失火に対して玉屋市兵衛を江戸所払い(追放)の処し、玉屋は一代限り35年で廃業となった。その後も隅田川の打ち上げ花火は、鍵屋の手によって継続されたが、明治に入ると欧米の多色の明るい火薬が輸入され、10代弥兵衛による多様な色彩の花火「洋火」は開発、さらに11代弥兵衛は新たな化学薬品による洋火 の製造の成功し、大仕掛な花火を開発している。昭和に入って第二次世界大戦の期間は当然中断されたが、昭和23年(1948)再開、第1回隅田川全国花火コンク-ルが開催された。しかし、経済の高度成長に副産物として隅田川の汚染が進行し昭和38年から52年に至るまで中断、翌年(1978)復活して現在のような2万発にも及ぶ花火が打ち上げられ、90万人を越える人出となっている。日本の花火の歴史の発展に主要な役割を果たしてきた「鍵屋」は、平成12年(2000)天野安喜子さんが、第15代目を襲名され活躍されている。
江戸の夏の風物といえば納涼と花火であろう。江戸庶民の夏の楽しみは、涼しさを求めて川辺の散策であった。旧暦5月28日の川開きから8月28日の川仕舞までの期間には、上流は綾瀬川の河口から下流は佃ちょきせん島・浜離宮に及ぶ流域には、納涼の客を乗せた屋形船や猪牙船(細長く先の尖ってんまぶねた屋根無しの船)、伝馬船(はしけ)、遊船の客へ料理や江戸前鮨・酒などを売る商さまよ人の「ウロウロ船」(売ろ船、うろうろ彷徨う船)で賑あった。客は上級武家や裕福な商人を始め、招待の客人の接待する商人、そして両国の納涼を楽しむ庶民であったが、この納涼に花火が加わることで江戸文化を代表する夏の年中行事となった。
小澤富夫(学習院生涯学習センター講師・元玉川学園女子短期大学教授)
(2006年07月18日)