神無月
「神無月」は、「かみなしづき」とも呼ばれ、八百万の神々が出雲大社の参集するため、たの国々では留守となるためと考えられた。「神の月」の意であろうか。その出雲では「神在月」と呼ばれる。
秋の季節は菊花の行事を代表とする。旧暦9月9日の重陽の節句では、菊花を酒に浸して飲み邪気払い延命長寿を願う。これは、古代中国で登高という丘に登り、菊花の酒を飲んだことに由来する。日本でも奈良朝以後、宮中では「観菊の宴」が催され、盃に菊花を浮かべて長寿を祝う行事がある。
また、重陽の節句前夜に菊花に綿を被せ、その露と香を移して、翌朝の綿で身体を拭うと長寿を保持できると信じられた。皇室の紋章が16弁の菊、宮家共通の「裏菊」も、こうした習俗に基づくものであろう。
江戸時代では文化年間(1804~18)に入ると、菊の花と葉を用いて見事に造形された「菊人形」が、巣鴨の植木屋の手によって始められ、江戸中の評判となり、貴賎上下を問わず多数の見物客が集まり、その道中には茶屋や酒屋が軒を並べる賑わいであった。『江戸名所花暦』には、巣鴨では90軒余の菊人形の見世物という記載がある。こうした庶民の菊人形への人気は、その人形が、当時評判の歌舞伎狂言に取材したことにもよる。
そのご天保の改革により規制されたが、弘化元年(1844)緩和され再開された。『武江年表』(斎藤月岑、平凡社・東洋文庫116-7)のよると、十月より巣鴨染井菊の飾り物再び始まる。文化よりこのかた花壇のみにて造物は絶えたりしが、今年巣鴨なる霊感院の会式の飾り物とて、宗祖の御難のさま蒙古退治の体など、菊花にて造りしより始まり、植木屋毎に菊の造り物をなして諸人の見せける。翌巳年より白山駒込根津谷中に 至る迄、植木屋ならぬ家までもきそひて造りしかば、凡そ六十余軒に及べり。貴賎の見物日毎に群衆し、猶年々に造りしが、嘉永の今にいたりて少し衰へたり。という記録が残されている。菊の番付表も売られ、庶民の秋の楽しみであった。明治以降の大正時代では、両国国技館、浅草花屋敷の菊人形が評判となった。
なお、10月第一土曜日に開催される台東区正宝院(飛不動)の菊市、18日の浅草寺の菊供養、この日には菊花を供えて別の花をもらい、これを枕の中に入れておくと長寿を保つという俗信仰があり、当日には菊花大会や菊人形が飾られ多くの参詣者で賑わう。
小澤富夫(学習院生涯学習センター講師・元玉川学園女子短期大学教授)
(2006年10月01日)