殿様にならなかった絵師
豊島新聞リレーエッセイ
「殿様にならなかった絵師」
清水康友(美術評論家・江戸時代の絵画講座 担当)
江戸幕府の老中を務めた姫路藩主酒井雅楽頭忠(ただ)恭(ずみ)の孫(父は忠仰(ただもち)早逝)に生まれた酒井忠因(ただなお)は、江戸期を代表する画家として日本美術史に燦然とその名を留めている。尾形光琳に私淑した忠因は抱一と号してその芸術の再興を図り、光琳芸術に江戸風を加味した江戸琳派を創出した。若年の抱一は姫路藩主の兄酒井忠以(ただざね)の文化サロンに出入りする一流の芸術家に諸芸を学び、その美意識に磨きをかけた。兄の庇護の許、部屋住みの身分のまま、江戸市井で自由気ままな生活を謳歌した。吉原にも度々出入りし、贔屓にした遊女も複数いたが、名門姫路十五万石の藩主の弟で絵画を始め諸芸に通じた若様が、女性にもてたであろう事は想像に難くない。
その様な抱一に、二十歳前後に譜代の名門古河藩七万石土井家より、再三養子縁組(仮養子も含む)の所望があった。しかし抱一はこの所望に首を縦に振る事はなく、自由な生活を続けた。もしも抱一がこの申し出に応じて古河藩の藩主になっていたとしたら、おそらく後年彼が企画した尾形光琳百年忌は催されず、光琳顕彰の各種事業も行われなかったであろう。そして何より抱一が最も尊敬する尾形光琳の名作「風神雷神図屏風」の裏絵として描かれた畢生の傑作「夏秋草図屏風」も制作されなかったと思われる。大名という封建社会での特権階級、殿様にならず市井に身を置いたからこそ、これ等の事を成し得たのである。
抱一はその後出家し、上野寛永寺裏手の鶯の里(今の鶯谷の辺り)に庵を結んだ。ここを終の棲家と定め、元吉原の遊女小鸞女史と睦まじく暮らし、この地でその生涯を閉じたのである。
(2014年02月27日)