豊島新聞リレーエッセイ 「山岡鉄舟の臨終」 阿部一好
山岡鉄舟の臨終
慶應四年三月上旬、官軍は江戸に近づいていた。德川慶喜の命を受けた山岡鉄舟は、江戸に攻め入ろうとする官軍の中を命がけで突破して、西鄕隆盛との交渉に臨んだ。そして江戸城開城の条件を引き出した。このことをきっかけに江戸は戦禍から免れたといえる。
その二十年後、山岡鉄舟は胃癌を患っていた。明治二十一年七月十九日午前九時過ぎ、結伽趺坐したまま絶息。二十二日午後、四谷仲町の鉄舟邸を出棺、台東区谷中の全生庵に埋葬された。
彼の病状は以前から新聞などで知らされていた。たとえば朝野新聞では、庭園を散歩するまでに回復したものの、「鬼神をも挫く剛の勇士も病は致方の無きものなり」と記している。葬儀の際には、大雨の中、三千人とも五千人とも言われる人々がその葬列を見守った。清水次郎長も駆けつけた。德川慶喜は、鉄舟逝去の連絡を受け、電報を送ったという。また鉄舟逝去の知らせを耳にした人々は大変驚き、茨城、埼玉方面からも「ゾロゾロ」と出かけたものらしい。
七月の初めのこと、医師から病状を聞かされた鉄舟は次のように語ったという。「世には種々の災難に遭ひて不幸にも死するものすらあるを拙者が如きは之と異り人力の及ぶ限りは治術を盡し而して其効なき時は佛家の所謂定命にて樂しむべき事にこそ拙者はお話を聞て喜びこそすれ聊かも歎くこと候はず」(明治二十一年七月二十一日、東京朝日新聞)と。鉄舟は今でも私たちを惹きつけている。
阿部 一好
(山岡鉄舟研究家、淑徳大学公開講座「山岡鉄舟の世界」世話人)
(2012年11月27日)