私の『歎異抄』 藤井 鉄雄
求めた古本に、確たる思い起こしの判然としない一冊『歎異抄講話 増補新版』(小野誠一郎著)が乱雑な机上にある。蔵書票は剥がれ落ち、糊の痕跡だけが残っている。まえがきに「古典は、古典そのままを読まなくては、ほんとうの味はわからない。………今日現代語訳や解説書が幾種類も出ているので………ぜひ原点に帰ってその本文を味読して貰いたい。それだけの努力はどうしても必要である」とある。
『歎異抄』は論語にも似て親鸞の弟子の唯円が後に著したものだ。読んだからといって分かるわけでもないが、知り得る言葉は良くて一つである。例えば煩悩、他力、本願、阿弥陀仏、浄土と細々たるものである。だからといって私が仏顔になったか。とんでもない。仏心さえも持てないでいる。
そんなこんなで私を突き動かしているものは、「平成十四年十月二十三日。正円寺(菩提寺)住職が急逝。享年五十二歳。その住職の言動が年若い割には老成を思わせていた。私は誓った。『歎異抄』を読み深めることを」――手製のカバーを掛け、その内側に私が認めた一文である。
時折、ページを捲る『歎異抄講話 増補新版』は心持ち柔らかく思われる。
机上に鎮座する様は、正に私の『歎異抄』だ。
(2011年07月08日)