リレーエッセイ
韓国逍遥
城﨑陽子(國學院大學講師・淑徳大学公開講座「万葉集」担当)
「東アジア」という言葉のもと日本の古典文学を今一度考えはじめてから韓国に足を運ぶ機会が増えた。間隙をぬって出かけた今回の旅は百済の都「扶余」を訪れることがその目的であった。
吐く息が白く凍る朝、ホテルを出発して、一路扶余をめざす。二時間半の道程は、まどろんでいるうちに過ぎていた。
朝靄のなか、百済式伽藍をもっていたとされる定林寺趾の石塔や石仏を見て回る。形は日本の五重塔と同じ。しかし、石組みの石塔は戦火に焼かれ、崩れ落ちていたものを復元したのだという。
朝鮮式山城である扶蘇山城は、百済の王宮があったところで、百済滅亡に際して、3000人の宮女が白馬江(白村江)に身を投げて亡くなったとの伝えが残る。そこに建つ「百花亭」から見下ろす白馬江の名の由来は、唐の将軍が難攻不落の扶蘇山城を攻め落とすため、河に棲んでいた龍を白馬で釣り上げたからとか。
王陵の谷である陵山里古墳群では飛鳥の古墳壁画の源を見た。こんなにも近しい文化を持ちながら、百済の都は哀しげだ。
日本書紀に残る百済滅亡の記事は語るも無惨な歴史である。一度滅んだ国を建て直し、救援を求めてきた忠臣は、再び戴いた王に疑われ、殺された。不吉な前兆が続く中、救援に向った日本の天皇は九州の地で亡くなり、その葬送は鬼が見送ったという。韓土を目指した多く兵も、天を振り仰ぎ、歯がみしつつこの地で亡くなった。
ソウルにもどると、旧正月のイルミネーションが美しく輝いていた。1300年の歴史と現実の狭間を「東アジア」という言葉一つで埋めるのは難しい。
(2010年02月18日)