一九二三年・ニコライ堂慕情
野田茂德 (筑波大学名誉教授・淑徳大学大学院客員教授)
お茶の水の高台の一角に「日本ハリストス正教会東京復活大聖堂」がある。その建築物は通称「ニコライ堂」といわれ親しまれている大聖堂である。
「ニコライ堂」といわれるのは、一八六一年(文久元年)に函館のロシア領事館に赴任したロシア正教の修道司祭・宣教師ニコライ・カサートキンの名にちなんだものである。「日本ハリストス正教会」とは一八七二年(明治五年)東京で、ニコライ・カサートキンによって創建されたロシア正教会のながれをくむ「キリスト教会」である。
ところで、大聖堂の建築は、ロシア人の建築家シチュールポフの設計図を「お雇い外国人」であったイギリス人の「コンドル先生」ことジョアサン・コンドルが修正を加え、自ら現場の指揮監督をし、一八八四年(明治十七年)に工事が始められ、竣工したのは一八九一年(明治二四年)であった。コンドルは当時、工部大学校(後の東京帝国大学工科大学)、工部省顧問をしていた。ニコライ堂の建立前に、旧東京帝室博物館本館、鹿鳴館、旧宮内省本館、岩崎弥之助深川邸洋館などをすでに竣工させていた。
一九二三年(大正十二年)九月一日の関東大震災によって、大聖堂のドーム、鐘楼が崩れ落ちた。大聖堂の内部も消失した。それを現在の形に修復したのは、「コンドル先生」を私淑し、大阪市中央公会堂(国重要文化財指定)、鳩山一郎邸等をてがけていた建築家の岡田信一郎である。
(2008年12月19日)