豊島新聞リレーエッセイ
「短夜(みじかよ)」と「宵は待ち」 (正)
俳諧研究家 山田喜美子
夏至は一年で最も日が長いのだが、なぜか「短夜(みじかよ)」と言い、「日永(ひなが)」とは言わない。「日永」は春の季語である。暗い冬から日が伸びる感覚を重視したのであろう。一方六月になると、明け方四時ごろには窓の外が白々としてくる。「明易(あけやす)」いのである。
長唄に「宵は待ち」という短い曲があり、数え年六つでお稽古に上がると、初めにこの曲を習う。
「宵は待ち、そして恨みて暁の別れの鶏と皆人の憎まれ口な、あれ啼くわいな、聞かせともなき耳に手を、鐘は上野か浅草か」
あどけない顔で無心に唄うのが興なのであろう。譜で教えず、口ずから教える。私の師匠は「耳に手を(・)」のところをいつも「耳に手も(・)」と唄った。幼い日にそう覚えたのだろう。
この曲は夏に限ったものではないが、それでなくともあっという間に過ぎる逢瀬の、特に夏の夜は無情でもあろう。シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」でも、夏の夜の短い逢瀬と鳥の声にせきたてられる朝の別れの切なさが描かれている。
恋しい人を帰したくない女心と、明るくなっては人目を憚る自制心とに引裂かれる胸の痛みは、時代や国、年齢をこえて共通の感情であろう。
「宵は待ち」の歌詞の最後は芭蕉の俳句からとられている。
花の雲鐘は上野か浅草か
芭蕉が深川の庵から寛永寺と浅草寺の鐘を霞のむこうに聞いた句である。
(2008年09月12日)