豊島新聞4月(野田茂徳)
安政の大地震と鯰絵
野田茂德 (筑波大学名誉教授・淑徳大学大学院客員教授)
安政二年乙卯(きのとう)十月二日(西暦一八五五年十一月十一日)夜四ツ半頃(午後十時頃)M6.9の地震が発生した。いわゆる「安政の大地震」である。その前年十一月四日には駿河、遠江、伊豆、相模で東海大地震、五日には「安政南海大地震」が続いて起きた。
当時の庶民にとって、地震の発生のメカニズムは理解できるものではなかった。庶民は日常の生活のなかで地震の前ぶれのようなものを感じてはいたが、科学的思考でなかった。しかし、ヒトはもはやその能力を失ってしまっているが自然界の生きものたちにとっては地層のせめぎあうエネルギーが発するものは、かれらの感覚には轟音となって伝わっているのである。自然界の生きものたちは、地下から発せられるただならぬ音にすばやく反応し、危険を察知していっせいに避難する。
たとえば江戸の庶民になじみぶかい水中の鯰(ナマズ)の敏感な行動とて例外ではない。地震の発生前に、地下からの激しいエネルギーを感受した鯰のただならぬ行動を見て、鯰がその後の地震を引き起こしたものだと考えていた。
安政の大地震の記録は多数残っているが、江戸の庶民にとっては地震そのものの被害より、地震の後、江戸の各地で発生した火事による被害が甚大であった。
安政の大地震と鯰の関係を、諧謔を弄したものに「鯰絵」がある。これは江戸時代、天変地異、火事、心中などを速報体制で印刷していた「かわらばん」のいうなれば多色刷りの特別版である。「鯰絵」には被災した江戸の庶民たちの笑いと涙を、再生の方に向かわせる余裕さえうかがわせるものがある。
(2008年09月09日)