エッセイを書く(15)
東京人
吉田 緑さん
私の生まれは、東京都新宿区牛込である。飯田橋と市ヶ谷と神楽坂の真ん中あたり、東京の中心部に位置する。大人になって社会に出て出身地を答えると、「江戸っ子だね」と言われるようになった。近所の同級生は皆同じなので、「江戸っ子」なんて意識しないし、こだわりはなかった。
「江戸っ子」とは、と考えてみると、三代さかのぼって東京生まれであることとか、短気で巻き舌の江戸弁と言われる話しかたで話し、やせ我慢をしても独自の美学を貫く人たちのように世間では言われているようだ。
「江戸っ子」とは下町地区をイメージしている気がする。江戸の範囲も、現在の東京都ではなく、山手線の内側の、さらに皇居丸の内、現在の丸の内線の四谷と茗荷谷まで位と、銀座線の範囲ではないかと思っている。戦前、渋谷や中野、池袋は郊外という認識だったと父に聞いたことがある。新橋、虎ノ門も夜真っ暗で、追いはぎが出たと祖父に聞いた事もある。新橋の先は、海であったのだ。江戸前の寿司やてんぷらの説明によると、江戸に入る前の品川宿の海でとれた魚や貝が江戸前のねた(種)だそうだ。現在の羽田沖のアナゴやハゼのてんぷらは、江戸前の名物だ。
交通手段の少ない戦前まで、東京は狭かったと言える。主に西側の高台の高級住宅地を山の手と呼び、高級サラリーマン、役人、文化人の住まいだったそうだ。川沿いの低い土地を下町と呼ぶ。職種ごとに関連して、職人が住居兼職場として住んでいたそうだ。現在も繊維関係、靴、鞄、玩具、印刷関連など、専門街として残っている。
山の手地区に、巻き舌で江戸弁を話す人は少ない。私の子どもの頃の牛込は、山の手と下町の混じった地域で、山の手の文化が強かった気がする。誰に対しても何事も、「ございます」「さようでございます」という丁寧な言い方を早口で話すため、滑稽にさえ聞こえる「ザーマス言葉」で話す中年以上の女性は当時珍しくなかった。最近では、デパートで、上品に身なりを整えた老婦人の「ザーマス言葉」をすれ違いざまに聞くことがあるくらいだが、懐かしく思う。これも東京人である。
我が家の場合、三代以上さかのぼる東京人にはまちがいないが、短気な人は見当たらない。暢気だ。地方から出てきて、故郷に錦を飾るような気負いがないせいかと思う。思い当たるのは、回りくどいことや、相手の顔色をみながら調子をあわせること、曲がったことが嫌いなことだ。そのため世渡りが下手である。身内で世の中の波にうまく乗っているものはいない。損な性分なのだ。背伸びせず、分相応の暮らしをささやかな幸せと思い、無理しない。「家は家だ。よその家と比べたらきりがない」と周りを気にしない。
江戸っ子が好む、「お天道様の下をどうどうと歩けるのか」という言い回しがある。人様に見られても恥ずかしい事はないが、誰も見てなくたって神様が見ている。つまりだれが見ていなくたって陰日なたなく働けとか……正直さ、まじめさを好む。みっともないまねはできないとか、損するとわかっていても、納得できないと意地をはるようなやせ我慢的な性分と、困っている人を見過ごせず、大風呂敷をひろげて損を承知で情をかける。江戸っ子の性分か、私の一族の遺伝的性分かはわからない。私も気質を受け継いでいると一族親戚に言われて、驚くことがある。
自分で「江戸っ子」と言ったことはない。江戸とよばれる時代に生まれたのではないからと、「東京人」を意識しないできたつもりだからだが、たまたま知り合った人がやけに話が弾むとか、テンポが合う気がして楽だと感じると、東京人同士で、さらに親も東京出身ということがある。そんな時通じ合う会話がある。御茶ノ水の聖橋のところに、地下鉄丸の内線が外に出て走る所があるのだが、
「赤い丸の内線が御茶ノ水のところに外にひょっこり顔出すところが可愛いと思うの」
「わかるな。その感じ」
わかってもらえると東京人としてこの上なく幸せな気分になる。不思議な郷愁を持つ私は、変な東京人かなと思っていた。でも映画『オールウェーズ3丁目の夕日』の大ヒットを見ると、物が少なく、二階建ての粗末な住まいや地味な商店街と都電、小さなテレビや冷蔵庫、安物のお菓子や着る物でも大して不満を持たず、近所は皆同じ、という人情が懐かしいと思う人がたくさんいるのではないだろうか。
最近は、隣の家に入ったことがないなんていうような希薄な人間関係になり、人が信じられなくなった。交通や通信が発達しすぎたのだろうか。一日の行動がゆったりしていた東京の良さを取り戻したいと思う。昔の「江戸っ子」や「東京人」もそう願っていると思いたい。
(2008年08月12日)