エッセイを書く(14)
都電に乗って
吉田 緑さん
「昭和ブーム」で昭和を懐かしむ映画や展示、企画を目にする。私の小さい頃は昭和の高度成長期で、今とは暮らしの速さが違う。ゆっくりと景色が動くように思い出す。多分、都電の窓から見えた外の町並みや景色を思い出すのだろう。
私の家は新宿区の牛込で、直ぐ裏の大久保通りに新宿と万世橋(秋葉原)を結ぶ十三番の都電が走っていた。大久保通りとは言わずに電車通りと言っていた。牛込はJR飯田橋と市ヶ谷と東西線神楽坂の真中のあたりに位置するが、当時東西線は無かったので、十五分かかる飯田橋と市ヶ谷が最寄りの駅になるが、歩くには不便で、徒歩一分の都電を利用していた。都電だけで行けない所には飯田橋まで乗ってJRに乗り換えるので、出かける時は必ず都電に乗ることになっていた。新宿や、途中乗り換えて上野や浅草に行けた。
私は、都電が大好きだった。ゆっくりで外の町並みがよく見える事。発車のたびに「ちんちんー」と鳴らす音と運転席の様子が見える。車掌さんが首にさげていたカバンから切符をだしてぱちぱちと穴をあける。当時のデパートの屋上のちんちん電車と同じように感じていたみたいだ。また、私は乗り物酔いをしたので、電車やバスや車は覚悟しないと乗れないもので、都電は唯一気楽に乗れる交通手段だった。
大久保通りは主要な街道道路に繋がっているので、ひどい渋滞をする。今も片道一車線の道路のままだ。この細い道路に都電が上下走って、停留場の島のような所もあったわけで、車が少なかったとはいえ、時代にあわず廃止になったことは理解できる。
昭和四十五年にこの十三番の都電が廃止となり、都バスが同じ路線を走り出した。ワンマンバスで、乗ったら直ぐ運賃をいれる。車掌さんはいない。バスは速い。都内の都電が徐々になくなり、早稲田と三ノ輪を結ぶ現在も残る荒川線のみとなった。
その後も牛込にいたので、早稲田から都電に乗ることは難しいことではなかったが、乗る機会はなかった。青春時代、荒川や町屋、巣鴨など下町に用事も興味もない。原宿や青山、銀座など、山の手の繁華街にしか目がいかない。
三十七年後の先日、懐かしくてどうしても乗ってみたくて、町屋から巣鴨のとげぬき地蔵にお参りしがてら都電に乗った。ゆっくりで駅と駅が短い。うれしかった。都電の色も、中の様子や匂いも昔とは違っていた。昔の都電は濃い黄色で、中の壁も床も木で、油の匂いが少しした。その匂いが強い時があって、乗り物酔いが始まる原因だったと思っている。そんな時は、木枠の窓を少し開けさせてもらった。現在の都バスと同じで、今は車掌さんもいない。発車のちんちんの音は、昔と同じで安心した。
降りるときに押すブザーが今のとは違っていて、昔どんなだったか思い出せなくて、夫に聞いてみた。都内の出身ではない夫は、「知らない」と言った。当時、私たちにとっては、日常から切り離せなかった都電を、知らないか知っていても利用したことがない人もいるのだと思った。
この荒川線は、無駄なような気もするが、残しておいて欲しい。都電があるから、都電の駅前が昔のままの商店街の形をとどめていられると思う。実際の経済のことを考えたら、渋滞や再開発の妨げになっていそうで課題が多いのだろうが。
あの頃は毎日買い物にでかけて、必要な分だけ買って帰る。夕食を自由な時間に食べることはなく、家族揃って食べる。子どもの文句など聞いてなかった。
冷蔵庫は小さくて冷凍の機能も低く、買い置きはできない。ビデオはない、テレビは一台、電話も一台。茶の間にみんなでいるしかなかった頃が、身の丈にあった生活というのだろうか。パソコンは、原型もなかっただろう。タイプはあったけれど、電卓もワープロもなかった。一人分の荷物は行李二つ位だっただろう。何をするにも昔とは比べ物にならないほど速く便利になったが、生活に必要な物や情報が増えて、精神的には忙しくなった。
ゆっくり走る都電は、穏やかな昭和の子どもの頃を思い出せる乗り物であると感じた。
(2008年08月11日)