俳句実作と鑑賞講座(1)
東京歳時記
関口芭蕉庵の桜―――――――井上弘美(俳人)
三月の終わり、文京区にある関口芭蕉庵を訪れた。折から桜が満開で、遠くから眺めると、庵は桜に包まれているようだった。
さまざまの事思ひ出す桜かな 芭蕉
桜の季節になると、必ず思い出す句である。
芭蕉には桜の名句がたくさんあるが、もっとも愛唱されているのはこの句ではないだろうか。桜を眺めながらこの句を思うとき、人はみな、それぞれの来し方を、芭蕉の桜に重ねることが出来るからだ。
ところで、芭蕉が関口芭蕉庵に住んでいたのは宝暦五年からの四年間で、三十四歳から三十七歳までである。今も庵の前を流れる神田上水の改修工事に関わっていたとされる。庵の庭には濃淡二本の枝垂れ桜があって、高々と満開の枝を垂れていた。芭蕉がここに住んでいた頃にも、桜は植えられていただろうか。瓢箪池という名前の小さな池は落花を浮かべ、池は薄紫色の著莪の花に囲まれていた。
芭蕉が生涯の旅として『おくのほそ道』の行脚に出るのは元禄二年、四十六歳の時である。関口芭蕉庵に住んでいた頃の芭蕉は、そんな人生を歩くことになることを知らない。近江の桜、吉野の桜。旅に身を置いて桜を愛でた芭蕉の、五十一年の生涯を思った。
(豊島新聞平成十九年五月二日号記載)
(2008年06月25日)